秋田県立 女子医学専門学校設置

女子医専設置の背景と本学医学部との関係

設立が計画されたのは昭和17年のことで、背景として第二次世界大戦の戦線拡大があり、医師不足を女医の育成で補おうと全国各地で女子医専の設立が論議された。

当時の秋田県は医師の数が全国最下位レベルで、脳卒中、結核、乳児死亡が特に多かった。臨時県議会では満場一致で設立を可決。校舎は秋田市楢山中町の旧秋田商業を使用して、近くの私立小泉病院と県厚生連掘反病院を附属病院に充てた。

学生の定員は1学年120人と現医学部以上である。設立費用の大半が募金で賄われた。教授陣の多くは東北大学から迎えられ、病理学者の吉田富三博士ら新進気鋭の医学者が顔を揃えたが、終戦とともに医専の行方が暗転する。

占領軍(GHQ)は戦時中に設立された医学校を再点検した結果、設備の脆弱であった秋田女子医専を廃校と決めた。県議会は県立医大への昇格を決議して存続への意欲を示したものの、敗戦の焦燥感や費用面などから存続運動に県民一致の盛上りはなく、その中で突然の不幸な事態が起きた。

昭和22年4月10日に原因不明の出火のため校舎が全焼したのである。この火災で学校存続への情熱も失われ、創立後わずか二年で卒業生を出すことなく、秋田女子医専は姿を消した。

同じような意図で設立された全国十三校のうち廃校になったのは、秋田を含めて高知、山梨であった。 医専の附属病院だけが県立病院として残り、昭和45年に創立された秋田大学医学部の附属病院に移管となった。

廃校時の在校生は他の医学部等に編入できたが、家庭の事情で医師の道を断念した人も多かった。女子医専の跡地の楢山公園にはブロンズの遺跡彫刻が立っている(下の写真)。

これは、同校元教授の神保恒春氏が寄贈を申し出て、平成元年に実現したものである。

彫刻は国画会会員で元秋田大教授の峯田敏郎氏が制作した。それぞれの思いを胸にさまざまな世界に旅立った同窓生を二人の乙女の姿に象徴させ、一層の前進を表現しており、テーマは「通りすぎる人」。

切手の貼られていない封書は、「郵便物戦時特例」として切手が品切れの時は収納印、日付印を押して受付けたもので、終戦前後の混乱期の世相を留める郵便物である。
書留便はおそらく学費や寮費を送金したものと思われる。