秋田大学大学院医学系研究科 医学専攻
腫瘍制御医学系 臨床腫瘍学講座
Department of Clinical Oncology, Akita University Graduate School of Medicine 秋田大学医学部附属病院 化学療法部/
秋田大学医学部附属病院 腫瘍内科
Department of Clinical Oncology / Division of Cancer Chemotherapy, Akita University Hospital

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新ラ・マンチャの男

一腫瘍内科医のドン・キホーテな生活

秋田大学大学院系研究科 教授 柴田浩行

出身県
愛知県
出身高校
私立東海高等学校(愛知県)
出身大学
東北大学医学部
卒業年
昭和62年
秋田大学大学院系研究科 教授 柴田浩行
昭和62年 6月~
仙台厚生病院消化器科・診療医
平成 3年 3月
東北大学大学院医学研究科博士課程修了(医学博士)
平成 3年10月~
癌研究所細胞生物部研究生
平成 4年 4月~
癌研究所細胞生物部研究員
平成 8年 4月~
東北大学加齢医学研究所化学療法科・医員
平成 8年 5月~
東北大学加齢医学研究所癌化学療法研究分野・助手
平成15年10月~
東北大学医学部腫瘍内科講師・医局長
平成19年 6月~
東北大学病院腫瘍内科副科長
平成19年 7月~
東北大学加齢医学研究所癌化学療法研究分野・准教授
平成20年 7月~
東北大学病院がん診療相談室室長を兼務
平成21年 2月~
秋田大学医学部臨床腫瘍学講座教授
平成21年 4月~
秋田大学医学部付属病院化学療法部部長・腫瘍内科長を兼務
平成24年 7月~
秋田大学医学部附属病院病院長補佐・感染制御部長を兼ねる

幼少期はどのように過ごされましたか? また、医師になろうと思ったきっかけはありますか?

生まれは愛知県の名古屋市です。ほどなく、稲沢市という文字通り周囲が田んぼの田舎に移り住み、田んぼに落とされたり落としたりの泥だらけの幼少期を過ごしました。小学3年生で名古屋市に戻ったときは都会との違いを強烈に感じました。

両親の実家はともに医者です。父方の祖父は愛知県豊田で村医者を開業していました。外科で手術室もあったので、子供の頃はよくそこで遊んでいました。並んだ手術器具に畏怖心を抱きながら見ていた覚えがあります。母方は曾祖父の代から長野県千国村で医業を営んでおり、祖父は名古屋に出て名古屋女子医専(現在の名古屋市立大学)の小児科の教授をしていました。そうした環境で育ちましたので、将来は自然と医者になるものだと思っていました。

幼稚園

父親は脳神経外科医で交通戦争と呼号された当時、頭部外傷は日常茶飯事で常に不在でした。休日も家に居ることは稀で、私はボーイスカウトに入隊し、休日は公園の清掃活動や街頭募金に勤しんでおりました。「人の役に立て」というのは、ここで仕込まれたような気がします。

小学校の高学年になると、父親の書斎にあった医学雑誌をよく眺めていました。アトラスの「のっぺり」として表面にミミズが這ったような脳にはあまり興味を感じませんでした。むしろ、乳がんや皮膚がんの写真を恐いもの見たさでページをめくり、その毒々しさが心にインプリントされました。

そのような環境にあったため、何の迷いもなく医学部に進学しようと思っていました。当時は、武見太郎日本医師会会長の医師優遇税制などにより、昭和40年頃から始まった医学部ブームの延長にありました。それ以前は優秀な学生はむしろ理学部、工学部に行きましたが、団塊の世代の頃、医学部は最も狭き門で、我々の頃も義務教育修了者の約400人に一人が国立大学の医学部に進学できるとされていました(誰の計算か知りませんが、今は100人に一人と言います)。

当時の開業医は誰でも儲かりました。ペンペン草の生える診療所で荒縄のベルトにスーパーカブで往診していた祖父と違って、後を継いだ伯父は羽振りが良さそうでした。寂しいことに現在は廃院となり、従兄弟は勤務医をしています。時代の変遷を感じます。

高校から大学時代はどのように過ごされましたか?

母校である東海高校(名古屋市)では、クラスの54人中約30人が医学部を連鎖志望するという、私にとっては大迷惑な状況。焦る担任をよそに、皆、初志貫徹するのですが、男子校で級友の全てがライバル、なんとも殺伐としていました。先日、送られてきた同窓会名簿には同じクラスに医学部教授がなんと4名もいました。

医学部に入学してからの2年間の一般教養は、医学とはかけ離れた内容で拍子抜け。モラトリアムな期間でした。その頃、先輩から「大学生は横文字を読め、その方がカッコいいから」と言われましたが、やはり横文字は無理で、レーニンジャーの訳書もついには枕となりました。しかし、「部屋のインテリアに」と先輩からもらったハスコウィッツの現代遺伝学から得た知識は、後の研究にあるヒントを提供しました。先輩も良い事をするものです。

私の母校では解剖学と病理学以外の講義にはあまり熱意が感じられませんでした。しかし、偉そうなことを言える学生でなかったのも事実です。現在は学生がつまらなそうにしていると、こちらの責任だと自省しつつ講義をしています。留年こそしなかったもののギリギリの進級でした。

医学生時代のエピソードを教えてください

入学早々の5月に、貞山堀(仙台市)で海上運動会が開催されました。これは二高以来の漕艇部主催の伝統行事です。私は同級生とクルーを組んで出漕したのですが、スタート直後にオールが海中に半ばまで没して抜けなくなる「腹切り」を演じ、波に棹さしたままゴールしました。漕手が一人足りなかった医学部漕艇部の友人は「ボート部に入れ」と私に詰め寄りました。海上運動会の責任から、スキー部を辞めてボート部に移りました。これを聞いた先輩が、私の下宿から塩竈の漕艇部合宿所に布団を運び去り完全に囚われの身となりました。

塩竈艇庫で 筆者(前列左)

漕手にはスキーヤーのような爽快感はなく、ガレー船の奴隷よろしく舵手の号令一下、塩竈湾をひたすら漕がされました。しかし、夜逃げを企てる事もなく、むしろ、この日常に満足感を感じていました。

当時の監督、そして3級先輩の副将、2級先輩の主務、4級後輩、そして私を含む5名が東北大学、山形大学、順天堂大学、そして秋田大学の、それぞれの臨床腫瘍学の教授になりました。不思議な松下村塾でした。縁は奇なものだと言いたいし、出会いも大事です。また、犬も歩けば棒に当たるのです。

専門はどのようにして決められましたか?

医学部を卒業の頃、進路を決めるに当たっては、やはり色々な事が頭をよぎりました。進むべき診療科の将来性、自分との相性、自らの興味や関心などから、循環器内科、泌尿器科、精神科、そして腫瘍内科が候補でした。

当時、「腫瘍内科」という名称は世間になく、「臨床癌化学療法分野」が札幌医大と東北大にしかない講座でした。もともとがん治療には興味がありましたが、人工肛門や乳房全摘などには違和感が強くありました。

しかし、6年次で3週間配属された時、「臨床癌化学療法分野」にラボがあり、がんのモノクローナル抗体によるミサイル療法の講義を聞かされ、当時はそんな言葉もなかったのですが、「トランスレーショナルスタディーをやっているのだ」と誤認して、興味を惹かれました。そして、自らの興味に忠実に進路を決めました。

卒業アルバルから

苦しい時でも(今も苦しいのですが)、何とかやってこられたのは自分の最も興味のある領域に進んだためだと思います。

「臨床癌化学療法分野」、通称“がんばけ(化け学とバケーションをかけた学生の命名です)”は亡くなる患者ばかりで暗く、学生から見て得体のしれない診療科でした。

当時は悪液質の管理もまずく、手足がむくみ、腹部が腹水でパンパンに張った患者が他病院から絶える事なく紹介されてきました。そこは80名近くが、ひっそりと入院している現代医療の姥捨て山でした。

残念ながらがんのモノクローナル抗体は講義の「お話」だけでした。騙されたのでしょうか? 教授といえども自分の研究だけで全ての講義ができる人は稀です。これからは講義スライドをよく見てください。他人の引用ばかりかもしれません。

当時の教授、涌井昭先生に入局希望を伝えると「大学院生で来なさい」と言われました。初期研修必修化などない時期です。「やっと卒業」と思った矢先、さらに4年間も学生をしなければならないことに軽い目眩を覚えました。しかし、友人に大言壮語した手前、前言を翻すこともできません。「ええい、ままよ」と入局しました。ときには思い切りも大事です。

キャリア形成で大切なものはなんでしょうか?

キャリアを形成する上で巡り会いは重要です。勿論、努力も必要ですが、サポートしてくれる人の存在は極めて重要です。特にキャリアの初めのうちは人格的に優れた人の下でやるのが良いでしょう。そういう意味では母校での研修には断然アドバンテージがあります。

恩師との一枚

私も指導医からは学問的なことはあまり学びませんでしたが、ビギナーにありがちな失敗を寛大に受け止めるてくれる器の大きさが先生にはありました。他大学からの入局者もいましたが、贔屓とまではいかないものの、同窓という紐帯の中で私には余裕があったと思います。彼らが随分と緊張し隅に固まっていたのに対して、私は、のびのびと、時には先輩の眉を顰めさせるぐらい闊達にやっていました。

ビギナーにとって指導者の重要性は稀代の大打者、イチローを例にとれば分かりやすいでしょう。プロ入団当時、土井昭三監督は振り子打法の改造を指示しますが、イチローは反発し二軍に落とされます。その後、イチローは仰木彬監督という理解者に巡り会い、振り子打法で活躍します。土井も仰木も、ともに二塁手ですが土井は名プレイヤー、巨人軍V9戦士でした。しかし、イチローがプロ野球選手として世に出るきっかけを作ったのは仰木です。仰木なくしてイチローなし。いくら才能があっても芽のうちに摘まれてしまえばおしまいです。また、名声があっても指導者として適性があるかは別物であることを示しています。

ビギナーの頃は気心の知れた先輩の居る母校が良いと言いましたが、いつまでも、この環境では駄目です。飽きてマンネリ化してしまいます。ある程度、地歩を固めると、全てを失う訳でもないし他流試合もしてみようかという余裕もできます。すでに一定の経験もあり、多少厳しい人間に当たってもプレッシャーで潰される事はないし、反発もできます。それらも含めて自らを陶冶することになります。

再びイチローの例ですが、彼が初めからメジャーリーグに入団していたらどうだったでしょうか?私は、今日の活躍は無かったと断言できます。マイナーからのデビューでは過酷な転戦に疲労困憊し自らのスタイルを確立する暇もなく、ライバルの間に埋もれていったことでしょう。日本での活躍があればこそ、ニンテンドーがスポンサーとなりマリナーズから鮮烈にデビューしたのでした。

入局されてからはどのように過ごされましたか?

入局してから診療と研究は同時進行の、今で言う社会人大学院生でした。やる気になっていた抗体はなかったのですが、多剤耐性(MDR)遺伝子の話が浮上しました。

1987年当時、母校には分子生物学的研究のできる教室はありませんでした。この年、イムノグロブリンの免疫的多様性をサザン法で解明した利根川進がノーベル医学生理学賞を受賞しました。サザン法という分子生物学的手法により生命現象を明解に説明可能であることに興奮を覚えていました。その折にMDR遺伝子をもらえるという話が降って沸いたのです。MDR遺伝子は当時のがん薬物療法の最もホットな話題な一つでした。「効かない、効かない」と言われていた抗がん剤治療に活路が見出せるのではという期待が高まっていました。

これを大学院の1年生がやってもいいのでしょうか?しかし、他にやれる(手のあいているという意味も含んで)人も居なかったのです。では「誰の指導を受けるのか?」ということになったのですが、誰も教えられないという状況でした。

忘年会の余興

「そんな馬鹿な」という話です。しかし、講座に教えられる人間がいないということは、少なくともここが一つの「最先端」なのです。各地を旅行すると「本州最南端」とか「日本最北端」とかいう看板にしばしば遭遇します。旅行者も、もちろん私も、この「最先端」という言葉が好きです。新しい挑戦にたじろぐよりも、むしろ、やる気が沸きました。こんな能動的な気持ちは久しぶりでした。

今日、分子生物学の実験書は山のようにあります。しかも、微に入り細に穿って丁寧です。しかし、このころは「マニアティス」と通称されていたMolecular Cloninngという3冊の英語の本があるきりでした。この3冊を読んでは実験を行うのですが、挿絵も少なく理解に苦しみました。まさに、「解体新書」にそっくりな状況でしたが、主体的にやれたのは非常に貴重な経験でした。

これ以降、研究は手法を含めて自ら切り開くしかないという覚悟が身につきました。本当に最先端に位置するかは別にしても、その時、きっと医学の歴史に参加している昂揚感を感じるはずです。研究の醍醐味はここに尽きると思います。多くの後輩達も同じ経験をすれば、キャリアで最も幸せな時を過ごすことができると思います。

大学院終了後はどのように過ごされましたか?

4年間の臨床経験で「腫瘍内科」は何とかやれるだろうと思いました。むしろ、もっと研究したくなっていました。というのも、当時、抗癌剤治療の成績は頭打ちでしたし、何しろ最大耐用量を投与する毒薬治療という「脳無し」の治療方法には辟易としていました。治療関連死亡も少なくなく、もっと安全で効果的な新しい方法を確立すべきであり、そのためには癌の成り立ちが詳しく解明されなくてはいけないと思いました。1991年当時、がん遺伝子やがん抑制遺伝子のクローニングラッシュで分子生物学的手法を身につけつつあった私は、この領域に強く興味を持ちました。

大学院を修了し、海外留学もチャンスでした。先輩の引いたレールに乗ってテキサス大学ガルベストンを見学に行きました。しかし、先輩の仕事を見ても現地を見ても、そこの研究に魅力は全く感じられませんでした。

そのとき、癌研究所の先生がラボを開くとして仙台に研究員を募集に来ました。彼はジーンターゲティングの先覚者で、MITのホワイトヘッドから、この技術を持ち帰ったところでした。私は「彼の研究室に加わりたい」と教授に直訴しました。この挙は序列を越えて横紙破りの感もあったので私は医局を辞するつもりでした。しかし、先輩が「医局に籍だけでも残しておけ」と諌めるので、それに従い、このことが後に幸いしました。

1991年当時、ノックアウトマウスの技術を自分たちの研究に活用しようと錚々たる研究室の研究者がvisiting fellowとしてラボに滞在していました。彼らは全員CNSを目指していました。CNSとはCell、Nature、Scienceの頭文字で、インパクト指数が30点を越える自然科学の3大ジャーナルです。彼らは、ほぼ全員がPhD、または医学部以外の理系出身者でした。彼らの地位は不安定で、そのキャリアアップに業績は不可欠でした。彼らの必死の雰囲気は私にも伝染したのでした。

移って半年、PhDからは時期尚早との声も上がりましたが、私は研究員に抜擢されました。そして、研究所から給与が出るようになりました。1年も経過すると学位取得のために諸方の医学部から大学院生が続々と送りこまれてきました。MDである彼らの多くは私の傘下に加えられました。しかし、彼らは実験の素人で、その教育には骨が折れました。私は彼らから隊長と呼ばれ、ラボミーティーングでは怒鳴られる役でした。この厳しさに落伍する者、夜逃げする者が多々おりました。特にMDには耐えられない者が多く、私も初めからここに来ていれば同様の運命を辿っていたかもしれません。

癌研には約5年間居りました。この時、私はAPC遺伝子のコンディショナルノックアウトを行い、大腸がんの発生にはAPC遺伝子の変異がイニシエーターとして働き、約3週間で腺腫ができることを証明しました。成果はScience誌に掲載され、私の研究のハイライトとなりました。

癌研での研究は苦しい中にも、充実した日々でした。また、研究所では日本を代表するがん研究者が活躍しており、今も交流が続いています。そのほかにもユニークな人材が沢山おり、彼らとの交遊は私自身を多いに成長させました。やはり、犬も歩けば棒に当たるのでした。

研究中は貧乏暮らしでしたか?

貫禄だけは

学生からも聞かれます。研究が佳境に入ると、収入なんかどうでも良くなったときもありますが、MDはPhDに比べ断然恵まれています。無給の研究員でも週末の当直のアルバイトに行けば、24時間拘束で約10万円もらえました。月に4回当直すれば40万円です。他に日中の病院でのアルバイトを週1回すれば月に50−60万円ぐらいの収入になります。手取りではないのですが、一般のサラリーマンと比べても遜色ないと思います。

若い頃の一時期ですし、研究で一発当たれば別の将来が開けますし、基礎研究を行うのは決して無謀な挑戦ではありません。当時は独身で、東京ナイトライフとグルメを満喫していました。この間、体重は明らかに増えました。

癌研究所から医局へ戻られた経緯を教えてください。

癌研究所にきて5年が経った頃、当時癌研究所行きを許可してくれた教授から「仙台に戻って来い」と言われました。この頃、基礎研究者への道を真剣に考えていたのですが、「随分、好きにさせてあげたのだから、これからは俺を助けて欲しい」と言われると弱い所です。仙台の医局に戻り、大学院生や研究生、そして留学生など9人ぐらいの学位の指導などに関わりました。籍を残していたのですぐに助手で採用されました。臨床の教室でしたが、Nature Genetics、PNAS、Cancer Researchなど質の高い仕事も出ました。

CRESTの分担研究員にしてもらい、癌研での仕事も仙台で継続できることになりました。「大腸がん発がんを負に制御する遺伝子の単離」というテーマです。癌研時代、APC遺伝子に変異があるにもかかわらず、腺腫ができないマウスを見つけました。想定外でしたが、こういうものが次の研究につながります。アデノウイルスを感染させていたので、APC遺伝子以外に遺伝子変異が挿入されていると思われました。「発がんを負に制御する遺伝子」、まさに標的分子治療の標的そのものです。治療に直結する研究になるとテンションは高まりました。この遺伝子探索の戦略にハスコウィッツの「連鎖と組換え」を思い出したのでした。分子遺伝学的にアプローチしましたが、最後の4メガベースにある約100個の遺伝子のシークエンスは力技でした。原因遺伝子はα−カテニンでした。Nature Geneticsは固いと思っていたのですが、PNASでした。

留学はされましたか?

大学院修了時に乗り気になれなかった海外留学を再度目論んだのは1998 年でした。当時、友人のUが留学していたジョンズホプキンス大学が希望でした。Uは線虫のラボにいましたが、私は「ミスターがん抑制遺伝子」のBert Vogelsteinに会いたかったのです。

世界を目指す研究員Mさんと

しかし「Vogelsteinのラボは日本人をとらない」とUは言いました。「ならば、盟友のK Kinzlerか弟子のD. Sidranskyの所でも」と考え、ボルティモアに行き、同じく留学中の同級生Yに会うと「お前はサイエンスがあるから、こっちで苦労する必要など無いだろう」と彼は言いました。私はジャーナルが欲しいのではなく、研究やキャリアのキーマンに出会う機会を求めていました。

「腺腫ができないマウス」は手土産には良いように思いましたが、ちょっと浅慮でした。自分が見つけたマウスですが、自分だけのものではなかったのです。結局、この計画は頓挫してしまいました。

後日譚ですが、「腺腫ができないマウス」は2007年PNASに掲載されますが、その時のEditorがBert Vogelsteinでした。今でも海外には行きたいし、皆さんにも奨めます。サバーティカルが導入されれば申請したいですね。

研究についてたくさんお話を伺いましたが、診療はいかがですか?

勿論、診療もしていますが、診療面では話がありません。 腫瘍内科は技術的要素が乏しくて知識でカバーできます。外科医は技術的要素が高く、研究にまで手を出すのは難しそうです。研究はすごいけどメスが切れないのは困ります。しかし、一流の外科医は両方ともこなします。九州大学の某外科からは毎年、膨大な量の業績集が送られてきます。

私の臨床のトピックスは2005年に第1回のがん薬物療法の専門医試験に合格したことぐらいでしょうか?基礎研究がトランスレーショナル研究にまで発展すれば凄い事です。今は、独自に開発しているクルクミンアナログによるトランスレーショナルスタディーを目指していますが、それが実現すれば卒業の時に思い描いた夢に一歩近づいたことになります。クライマックスはまだ先のようです。

最後に先生が担当されている講座について教えてください。

2009年から秋田大学で臨床腫瘍学講座を担当しています。研修医が大学の講座で修練することの意義は何でしょうか?診療技術は一般病院の方が優れている場合もありますが、大学の講座にしかないのは研究指導です。ただ学位を取るためのデータ集めや論文を書けばよしとするのではなく、誰しもが医学研究の歴史や流れを感じ、わずかであっても、そこに足跡を刻むという喜びを味わって欲しいと思います。

論文を書くことは教授の仕事です。「良いデータを持って来ないから書けない」とうそぶく人がいますが、それは居直りで立案から論文作成の全てが教授の責任です。私はこれまでにも大学院生の成果が出ないときは彼らに素直に詫びています。他への責任転嫁だけはできません。そこは講座の主宰者である教授の譲れない矜持です。だから、研究や失敗を恐れずに大学院に進学して欲しいと思います。必ずバックアップしますし、きっと医学研究の喜びやほろ苦さを味わうことができます。

そして随所で述べたように、秋田大学の出身者はまず母校で育まれるべきです。大学院教育までが講座の主任の責務ではないでしょうか。私はそのように考えます。

※エキスパートドクターに掲載