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これまでの道、そしてこれから描く未来

宮腰尚久教授インタビュー記事

これまでの道、そしてこれから描く未来

Vol.2

聞き手:木村竜太、東海林諒
撮影:木村竜太

次に、思い出の症例について教えてください。

まずは手術やってよかったと思うのは、手術に16時間もかかった頚椎軟骨肉腫です。

大変な患者さんだったけど、10年間経過を見て良かったので、論文にもしているんです。

(Miyakoshi N, et al. Inhibition of autograft bone resorption by antibone resorptive agents after spinal reconstruction surgery for extensive cervical chondrosarcoma: a case report with a 10-year follow-up. World Neurosurg. 2020;142:239-245.)

当時、私は40代半ばぐらいだったんだけど、当時の自分が持てる知識と技術を全部使ってやりました。 体力もあったから16時間の手術ができたわけで、今だとかなり厳しいと思います。

外科医として脂が乗りきった時期に、アグレッシブにやって上手くいったという意味でも、とても思い出深い症例なんです。

あと、一年目の時に経験した17歳のosteosarcoma。

当時は初期研修医とか無いから、5月に医師免許が来るとすぐ病棟の主治医になって、その頃に一番最初に経験したのが脛骨のosteosarcomaでした。

大学に紹介されて、化学療法とかいろいろやったけど、肺転移ですぐに亡くなったんです。秋田の内陸の豪雪地域から来た彼は、野球をやってました。当時の秋田経済法科大学に野球部の室内練習場が出来たばかりで、あそこで練習したいっていうのが夢でした。

でも結局叶いませんでした。当時は、最初は本人には告知していなくて、まだ「骨髄炎です」みたいに言ってる時代でした。

だから彼は最初、自分が骨肉腫だとは思ってなかったんですね。でも最終的には分かります。

「最初からハッキリ言ってくれれば、もうちょっとやりたいことをやれたのに」とか。そういう彼の後悔や愚痴を毎日病棟で夜中の11時12時まで聞いていました。

彼は亡くなる少し前にその練習場を見たいって言いました。かなり呼吸が苦しい時に。

病院の外の床屋にも行きたいって言い始めました。たぶん床屋に行きたいっていうのは言い訳で、亡くなる前に一度外の空気を吸いたかったんだと思うんです。

それで、外出届を出して私の車に乗せて連れて行きました。近くの床屋に行った後に室内練習場も見せてまわりました。彼は嬉しそうだったけど、苦しそうでした。

病院に帰ってきた時、彼はチアノーゼだったけど明るい顔で、「いろいろ見れてよかった」って言ってくれたんだけど、医者になって一年目の時は、いざとなっても何もできないし、自分の車に乗せて連れ回すっていうのは、やっぱりやってはいけないことなので反省しました。上の先生にも怒られました。でも、亡くなった後に彼のお母さんにはものすごく感謝されました。当時の私としては、自分の腕では治せないから、できるだけ寄り添おうと思ってやってしまったわけです。

彼はいつもジミヘン(Jimmy Hendrix)をウォークマンで聞いていました。毎夜、壮絶な人生観を私にぶつけて語り合いました。いまだに強烈に印象に残ってる患者さんです。

彼は私が手術した患者さんではないけれど、若い時に経験した症例は、三つ子の魂百までみたいに、いつまでも強烈に印象に残るし、その後の医師人生や考え方にも影響すると思うんです。研修医や専攻医には、難しい症例をたくさん任せてあげたいと思います。

あとは、脊椎原発のMPNST(Malignant Peripheral Nerve Sheath Tumor)の患者さんですね。この患者さんとの出会いは、まさに晴天の霹靂でした。

高齢の女性が対麻痺で関連病院から運ばれてきて、最初は普通の転移性脊椎腫瘍かなと思って緊急で除圧固定術をやったら、病理でMPNSTという診断でした。いろいろ治療しましたが、最終的に背中にものすごい巨大な腫瘍を作って、半年ぐらいで亡くなった方です。

今みたいにホスピスもない時代で関連病院に転院しましたけど、どうしても大学で死にたいと言われて戻ってきて、最期は私が看取りました。

この患者さんは背中の腫瘍が日に日に大きくなって経過が壮絶だったし、骨内からMPNSTが発生することを私は知らなかった。調べてみると、脊椎からMPNSTが発生するということは非常に珍しく、ほとんど報告がありませんでした。

患者さんもご家族も、私を全面的に信頼してくれていたので、病理解剖もできて、立ち会いました。

この患者さんは、背中の巨大な腫瘍のために仰向けになれなくて、最期まで横になって寝ていました。病理解剖の後で背中の腫瘍が無くなって、仰向けになることができたご遺体を見て、娘さんが、「母さん、ちゃんと寝れるようになってよかったね」と言っていたのが印象に残っています。

この患者さんは、このような珍しい病気を身をもってわれわれに教えてくれたわけです。その経過を論文として世に残すことは、この方が生きた証にもなるのではないかということで、それで論文にしました。

ただ、やっぱり査読者からは「本当に脊椎原発のMPNSTなのか、その証拠があるのか?」などと言われてしまって、多くの雑誌にrejectされてしまいました。でも最終的にはNeurology Indiaという雑誌に載せてもらいました。

(Miyakoshi N, et al. Intraosseous malignant peripheral nerve sheath tumor with focal epithelioid differentiation of the thoracic spine. Neurol India. 2007;55:64-66.)

当時はこの雑誌のことを良く知りませんでした。

たまたま少し前にこの雑誌から査読依頼があったので、じゃあこの雑誌にでも出してみようと思って投稿したのがNeurology Indiaでした。当時はインパクトファクターが0.2〜0.3くらいだったと思うんですが、今ではその10倍にもなって一流雑誌です。驚きですね。

「手術が上手くなる」っていうところに対してお考えを教えてください。一例一例を丁寧に対応するということはもちろん大切と思うのですが、やはりある程度の数をこなすということも、手技の確立には大切なものだと思います。このあたりについてはどのようにお考えですか?

私は、単に数をこなすよりも、じっくり考えることのほうがすごく大事だと思ってるんです。

もちろん、ある程度の数をこなして、しっかりとした手技を身につけてからです。基本手技は自転車に乗れるようになるのと同じで、これができなければ話になりません。例えば、しっかりとメスを使えて糸が結べれば、とりあえずの手術はできるじゃないですか。ぶれない基本手技が身につけば、あとはじっくり考えながらの応用で、競輪選手になるか、オフロードに行くかなどさまざまです。

例えば顕微鏡手術でも同じで、顕微鏡が使えるようになったら、その手技でやったことがない症例に遭遇した時にどうするかをじっくりと考えます。

関連病院だと、大変な症例は大学に紹介しようという選択肢もありますが、私は長年大学でやってきたので、逃げ場がないんですよ。

紹介で来た大変な症例は、大概、私もやったことがない症例なんです。

でもやったことがないからといって、頼って紹介していただいた患者さんを、大学で出来ないっていうことはできません。

見たこともやったこともない症例は、一例一例、論文を調べて読んで、頭の中でイメージして、ここまでいったら撤退しなきゃいけないっていうのも全部計画して、あとは予定通りそれをやるんです。

調べても無いものもあります。その場合は手術のイメージだけになってしまいますが、それでもプランを立てた段階で、手術ってだいたい終わってると思います。

無謀にチャレンジするから合併症が起きたりするんです。だから、そこは一例一例、丁寧にやってきましたね。

自転車に乗れるようになったら、方向性は人それぞれです。

でも、競輪選手だって山を走れって言われれば普通の人よりは速いし、マウンテンバイクの人だって普通の人よりはロードバイクにうまく乗れるんですよ、おそらく。

だから、基本的なスキルを元にしてじっくり頑張れば、どの道に行っても頑張らないよりははるかに上に行くと思います。

宮腰教授の手術では、本当にきれいな術野展開を見せて頂いています。丁寧にやるってこういうことなんだなっていうのを実感させられます。

私の手術は、自分でもわかってるんだけど、速くないんですよ。でも出血は少ないんです。

出血が少ないということは、最終的にいい成績に繋がりますからね。

安心感がありますよね。これは何も起きないでこのまま終わるんだろうなっていう教授の手術。

留学についてぜひもうちょっと突っ込んで伺えればと思います。いい思い出だったり、ちょっと苦い思い出などもあれば教えてください。

留学のいい思い出といわれて、まず最初に思ったのは、留学する直前のことですね。

行く直前まで、術後の合併症がある側弯症の患者さんがICUに入ってて、行く2日前まで昼夜問わずICU小僧をやってたんですね。当時は携帯電話がないから、呼ばれればすぐに駆けつけられるように、ICUに患者さんが入ったときは病院に毎日泊まってました。それが、ICU小僧です。

島田先生に、「そろそろ留学だから、あといいよ」って言われて、それで2日前に開放されてバタバタ準備しての出発でした。そこで、「飛行機の中で眠れる!」と思ったの最初のいい思い出です。

海外に行ってみると、ポケベル持たなくていいし、患者も持たなかったので、昼に実験をやって、夜や週末は家族で過ごす時間がたくさんあってということで、パラダイスでした。2年間、患者に縛られることから完全に解放されて「海外生活を楽しむ」というのがすごく良かった。

家族との時間が多いんで、いろんな国立公園に車で行ったんですよ。カリフォルニアとかネヴァダを中心に。それはやっぱりかけがえのない思い出です。当時はお金も無かったので、まあ無謀な旅行でした。当然、携帯電話もカーナビもない中、トリプルエー(AAA: American Automobile Association)でもらった地図を見ながら砂漠の中を何時間も走ってた訳だから、何かあれば本当に困るんだけど、そういうことも気にせずにできるような、まあいい時代だったと思います。治安も今よりは良かったですしね。

車は200万円分ぐらいのトラベラーズチェックを持って行って、向こうで全部にサインして買いました。

ちなみにどんな車だったんですか?

ホンダシビックです。日本車はやっぱり人気があります。壊れないし、下取りする時に日本車のほうが高く売れるから。

帰ってくる時に売ってきたんだけど、結構高く売れました。

買った時に日本円で200万円ぐらいの車が、売った時も100万円以上だった。2年間で7万マイル以上、おそらく10万キロ以上は乗ってた車がです。向こうはそれでも日本車だと高く売れます。

苦い思い出といえば、小さいことは日々あるわけですよ。

やっぱり英語が通じにくいとか。ラボで仕事してる時は、日本人の英語でもちゃんと聞こうとしてくれるんだけど、普段の生活だとわからない英語もあるし、アジア人に対する蔑視とかも当然あるわけです。

安い店に買い物に行って、相手の言ってることがわからないから聞き返したりすると、なんだお前、みたいな態度を取られることもしょっちゅうある。そういうのは、まあ日々あるんですけど、それをいちいち気にしてたらしょうがないです。むしろ勉強になります。

そういうことも覚悟して海外に行ってるわけですから、あんまり気にしたことはないですね。

ただし、一回だけ、ラボですごく怒ったことがあります。アニマルセンターで、針を捨てちゃいけないところに捨てた者がいたんです。

誰が犯人だ、みたいになった時に、表では言ってくれないのに、陰で私が疑われていたらしいことがあったんです。結局、ネイティブの会話に十分ついて行けないから、そういうふうになったのかなと落ち込んだけれど、相当頭にもきました。

それをやったのは、アニマルセンターのスタッフで、退役軍人のキース(Keith)っていう全身刺青いっぱいのヤンキー白人でした。

キースが疑われたときに、ナオ(当時の私の呼称:Nao)がどうのこうのと言い訳したらしいんです。一緒に実験してた南アフリカ出身のシャーメイン(Charmaine)がそれを私に教えてくれたんで、それ聞いて超怒って、キースにガンガン文句を言ったんですよ。それで、インド人ボスのモーハン先生にもキースの文句をさんざん言いました。

キース、ものすごく謝って愛想良く握手してきて、その後、私のラットの世話をよくしてくれました。オキナワに住んでたことがあるとか、マルちゃん(日本製インスタントラーメンのこと)が好きだとか、よく話しかけてくるようになりました。

留学においては、英語が壁として感じるところですが、実際はどうでした?

英語はね、最初は当然うまくできなかったです。けれど、幸か不幸か、日本人がほかに誰もいないラボだったので、英語の環境に慣らされたっていうのはあります。

実験の手技書も全部英語だし、当然、最初の倫理講習なども英語で受けてやっていかなければなりません。ラボノートも全部英語で書くわけです。

ラボノートは置いてきたけど、手技書は思い出なんで持ってきました。まだあそこにあります。

毎週月曜の朝に、その週にやる実験プロトコールを英語で書いてモーハン先生に出してディスカッションして、日中はシャーメインや実験助手のジョー(Joe)と雑談しながらいろんな実験をして、夕方にはまたモーハン先生にフィードバックしてもらうってことを、毎日、2年間やってました。

少しずつ現場に慣れていったのが、一番の英語のトレーニングだったと思います。

留学前には英会話教室に行くべきだとか、当時も言われていたけど、私は行ったことがないです。

うちの家内は、行く前は英語が全くできませんでした。カリフォルニアってメキシコ人とか英語喋れない人もいっぱいいるから、州が無料で英語を教えてくれる教室があるんです。そこはアダルトスクールっていうんだけど、家内はそこに通って、韓国人とかメキシコ人とかベトナム人とか、英語が母国語じゃない人たちと一緒に勉強して、多国籍の友達を作って楽しくやってました。

買い物で、店の人と「ああだこうだ」ってやりとりをするのは、家内の方がはるかにうまかったですね。

当時、2歳だった息子を向こうの幼稚園に入れたら、いつのまにか英語を話してましたよ。

留学の中で、今に生かされていることはどのようなことですか?

日本と違う環境で生活をして、肌で感じた多様性の良いところを、日本でも生かすということでしょうか。

まず住んでみて、やっぱりアメリカは豊かだっていうことが身にしみました。山本五十六が思ったことと同じですよね。

まともに戦っては勝てません。

ただし、個人の力には日米の差はないと思いました。実際に自分のほうが上だと思う事もいっぱいあったし。

日本人は働きアリと言われた時代もある。でも、アメリカでも成功者は努力してるんです。

確か島田名誉教授も言っておられたと思いますが、「努力をしても成功しない人はいる。しかし、努力をしないで成功する人はいない」ということです。

向こうのラボは生存競争が激しいです。成功者は皆、努力しているようでした。これは本当に感じましたし、見習うべきだと思いましたね。

あと業績がすごく大事です。アメリカの場合は人種も多様だし、年齢も何もかもが多様な状態だから、外見では人の良し悪しがよくわかりません。正当な評価を受けるのはすべて業績なんですよ。

だから論文業績っていうのは本当に大事ですね。特に若い時の業績の重要性を感じました。ステップアップのために。

もちろん英語力も大事です。英語は基本的なコミュニケーションツールとして必ず使うものなので、若い人はまず英語を話せるようになったほうが絶対いいと思います。海外に行くかどうかは別として、日本にいても、グローバルな社会で生きて行くには英語は必要ですからね。

これは、当時も今も同じですかね。

業績は、アメリカだとすごいストレートに評価・給与につながってくると思うんですが、日本ってそこが弱いために、研究に対する積極性が生まれない一つの要因にもなってしまっているのかなと思っています。難しいところですが、お金を求めるわけでは無いですけど、研究や論文で成果を出した人に対してちゃんと何かしらの得られるものがあるべきだなと思うのですがいかがお考えですか?

もちろん、そのとおりだと思います。

論文を書くということは、業績を積むという意味ではすごく大事ですから、それを頑張った人を正当に評価していくのが今後の私の役目です。ここはシビアにやっていきたいと思っています。

けれど、ほかにも書くことには意味があると思います。

私は、自分がやったことを後世に残すという意味では論文が最良だと思っているので、たとえケースレポートであってもいいんです。英語でそこそこのジャーナルに載せておけば、たとえ日本が滅びたとしても、その著者が生きた証として、論文はその後も世の中に残るわけですよ。

それなんです。私が論文に対して一番の魅力を感じてるのは。

だから、論文業績は、人を客観的に評価するためのすごく重要な材料ではあるけれども、私の論文に対する認識は、むしろ自分がやってきたことを世の中に残したいっていうことなんですよね。

広い意味でいうと、自分へのご褒美かもしれないです。

何百例、何千例、手術をやっても、100年経てばその術者の名前を誰も覚えていないと思います。

でも、いい論文は、100年、200年経っても残るし、書いた人の名前も残ります。

確かに。そうですね。

論文を書く動機は何であれ、頑張った人にはしっかりと評価をしてあげるべきですから、私は、業績評価はしっかりとやっていきたいと思っています。

トラベリングフェローもたくさん行かれてますね。

若い時はチャンスがあれば海外に行きたいと思ってたんですよ。

好奇心もありますが、海外を知るってことはものすごく大事です。秋田に居ると、秋田での手術しか見れないし、私が若い時は海外とのコネもなかったから、外を見るには、自分で積極的にトラベリングフェローにアプライして行くしかなかったんです。

でも、トラブルに遭うことが多くて。

2003年にGICD-SSAF(Groupe International Cotrel Dubousset - Spinal Science Advancement Foundation)のトラベリングフェローでメキシコに行くはずだった時は、直前でイラク戦争が勃発して中止になってしまいました。

2004年のAPOA(Asia Pacific Orthopaedic Association)のフェローではマレーシアに行ったんだけど、ちょうどその時に隣のインドネシアで、マレーシア出身のイスラム教徒、ジュマ・イスラミアによる爆弾テロがアメリカ大使館であって、帰りの空港のセキュリティーがすごく厳しくて大変でした。

HKOA(Hong Kong Orthopaedic association)のトラベリングフェローで行ったのは、ちょうど2005年のSARS(severe acute respiratory syndrome)の時でした。当時、手術室の看護師さんたちがお弁当食べるテーブルに透明なアクリル板が全部設置してあって、大変だなあと思ってました。まさに今のコロナ禍の日本の状況が、当時の香港だったんですよ。

あとは、JSSR(Japanese Society for Spine Surgery and Related Research)のアジアトラベリングフェロ-が新しくできるっていうことで、第一回目にアプライしました。

この時は2006年で、名古屋の湯川泰紹先生と一緒に行ったんだけど、タイのバンコクで軍事クーデターがあって。いつもどおり朝にタクシー乗ってたら、急に戦車の車列に出くわして、その後、戒厳令で外出禁止になってしまって、しばらくホテルから出ることができませんでした。

まあ、何かしらトラブルが必ず起こってましたね。

でもめげずに、最終的には2008年にJOA-AOA(Japanese Orthopaedic Association - America Orthopedic Association)のトラベリングフェローとして行くことができました。これは3~4週くらいで米国を何ヵ所も周るんですけど、結構過酷なんですよ。

標準的な一日のスケジュールは、朝6時ぐらいからカンファレンスが始まって、7時から9時頃には講演会で自分たちがやってきたことを話したりして、その後、病院見学したり手術に入ったりするんです。

ただ、アメリカでは昼食はちゃんととります。手術の途中でいったん手を下ろして食べて、また入るっていう感じです。それで夕方5時ぐらいまで手術があったり、ない時は観光に連れてってもらったりして、夜は毎晩ヘビーなお食事会があって、ホテルには22時過ぎに戻る。

次の日はまた同じスケジュールで毎日です。これを3週間ぐらい続けたんですよね。

だからやっぱり、トラベリングフェローは若い時じゃないともたないんですよ。

今じゃとても無理です。

皆さん、チャンスがあればぜひ海外に行くべきだと思います。

若い時に見ておくと視野が広がります。

臨床が遅れるんじゃないかとか、臨床もまだ身についてないから、もうちょっと後に行きたいっていう考えもあるけれど、行ける時に行かないと次のチャンスはないかもしれない。

チャンスがあったら、できるだけ行っておいた方がいいと思います。

海外に行くことについて、特に市中病院の先生は、業務が止まってしまうこともあるし、他の先生に対して業務を増やしてしまう抵抗感があって憚られることもあると思います。

やっぱり現場に残った人たちは大変なので、これは難しい問題ですよね。

で、そこで必要なのがマンパワーなんですよ。人がいっぱいいれば何とでもなると思います。

例えば、10人いる病院で1人留学しても9人いればなんとかなるけど、3人のところが2人になったら大変です。

だから、とにかく若い人を増やしたいです。

そうすると、長期で留学に行ける人もたくさん出せるようになります。

国内留学でも勉強させたいところがいっぱいありますから、そこで学位の研究をするという選択肢もあると思っています。

Vol.3へ続く

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