私の海外散歩

動物実験施設 松田幸久

はじめに
 これまでに調査,研究,学会参加などで6回ほど渡航した。1年に何度も国際学会等に参加している人に比べれば,私の海外経験は少ない。しかし,私にとっては大きな経験であった。その経験の幾つかは,本文にも記しているように既に何らかの形で発表している。今回,編集委員長の三枝先生に本欄への執筆を依頼されたため,これまでに記していなかった部分について触れてみたい。

New Orleans

 昨年(2002年)の夏にミシシッピー川の畔を散歩してきた。第4回世界代替法学会がニューオリンズで開催され,そこで「日本における動物実験の最近の動向」を報告してきたときのことである。なぜそんな大役が私に回ってきたかというとO大学のK先生が仕掛け人である。最初は断ったのだが,K先生の押しの強さに負けてしまった。後で聞いた話だが,大方の人に断られた後で私にお鉢が回ってきたらしい。メクラ蛇に怖じずとは私のことであろう。
 発表は五里霧中?いや無我夢中のうちに終わった。このときの学会の内容は12月に東京で開催された日本代替法学会において「第4回国際代替法学会で見られた使用動物数と動物種の最近の動向」として報告した。また,秋田大学医学部動物実験施設のホームページ(以下,秋大HPと略す,)にも掲載している。

 ニューオリンズはルイジアナ州にあるメキシコ湾岸の都市で,人口が50万ほど,ジャズ発祥の地として,またクレオール文化の地として有名である。暇を見つけては会場であるホテルを抜け出し,フレンチクオーターに出かけて路上で繰り広げられるジャズを楽しんだ。写真1は,日本からの参加者が打ち揃いAcmeというすごい名のオイスターバーで名物の牡蠣を食したときのものである。しかし,こちらはいただけなかった。牡蠣はRのつく月に食するものと言われるが,季節は8月であった。秋田では夏が牡蠣の旬である。一般に食べられている真牡蠣ではなく岩牡蠣と呼ばれる代物。岩牡蠣は真牡蠣よりも深いところに生息し,大きさも真牡蠣の数倍ある。夏に一気に産卵し,身がスカスカになり,秋からグリコーゲンを蓄えて冬に旬を迎える真牡蠣と違い,岩牡蠣は一年中少しずつ産卵している。鳥海山からの栄養分を含んだ雪解け水で夏に最高の味になる。そんな話をしながらビールやワインを飲み交わした。

 学会もほぼ順調に進み,貴重な情報も多く得た。最終日前夜のバンケットに参加し,前回ボローニャで開かれた第3回大会で知り合った人々とも交流を深め,翌日は6年ぶりのシカゴへと向かった。

Bologna

 1999年の夏に第3回の世界代替法学会がボローニャで開かれ,それに参加した。私にとっては初めての渡欧である。ボローニャはイタリア北部にある人口40万ほどの都市でヨーロッパ最古の大学がある。前出のK先生と一緒に世界で最初(1300年頃)に人体解剖が行われたという場所を見学した。そのあと町中を散歩し,市場などを冷やかした。ボローニャは交通の要衝で,イタリア各地の物資がここに集まる。食のボローニャともいわれる。写真2は肉屋の風景であるが,最近の日本と違って売られている肉は確かに生き物であったことがわかるような姿で吊されていた。これだと子供達でさえ命あったものを食していると実感するであろう。

 写真3は大会最終日の前夜にボローニャからバスで1時間ほどの所にあるAlbergati城で行われたバンケットでのスナップショットである。一緒に写っているのはこの大会への参加を誘ってくれたC大学のI先生である。I先生とは学会の合間を縫ってフィレンツェにあるウフィッツィ美術館にもでかけた。フィレンツェまではユーロイクスプレスで2時間ほどかかるが,天気もよく快適な旅であった。そしてルネッサンス時代に栄華を極めたメディチ家が集めた名画の数々を鑑賞した。

 ところで,ルネッサンスの職人技は今もイタリアで受け継がれているようだ。学会を終えてボローニャからミラノのホテルまでの数時間の間に2度もスリにやられた。スーツをトランクに詰めるのも面倒と,それを着て帰路についたのがいけなかった。すぐに警察にとどけVISAカードを停止したので,幸い被害は少なかったが,学会で出会った人々と交換した名刺を擦られたのは残念であった。I先生は旅慣れたもので,あまり小綺麗とはいえない格好を終始続けた。そのせいかスリもジプシーの物乞いも寄りつかなかった。とにかくI先生から帰りの土産代を借りて何とか日本に帰ってきた。
 第3回世界代替法学会の参加報告は,秋大HPに掲載している。

Chicago

 先述したニューオリンズの帰りに,6年ぶりでシカゴに立ち寄った。1995年10月から翌年の2月まで平成7年度の文部省在外研究員としてシカゴ大学で研究する機会を得たが,その際お世話になった日系のご夫妻と再会してきた。

 シカゴはミシガン湖の畔にあり,人口300万ほど,マクドナルドの誕生の地,アル・カポネが暗躍した地として有名な都市である。後述するが,現在メリーランドにあるAAALACも実はシカゴに設立されている。ウィンディーシティーと呼ばれ冬には気温が零下10℃を下回る。帽子をすっぽりと被らないと顔の皮膚がピールするといわれた。7年前にそんな冬をシカゴで暮らした。

 シカゴ大学は1891年にJohn D. Rockefellerによって創設され,これまでに多くのノーベル賞受賞者を出している。動物実験に関していうと,シカゴでは1940年後半から1950年にかけて大きな動物実験反対運動があった。それは研究所でのイヌの需要が増大したため,悪質な業者が飼い犬を捕まえて研究所に売り渡すという事実が報道されたためである。そのためシカゴ大学動物実験施設の管理者Nathen博士を中心としてシカゴにある研究機関で働いていた獣医師のグループが動物の管理と使用に関する情報を交換するために1950年にAnimal Care Panel(ACP)を設立した。このACPが後にAALASとなる。ACPはStandards for the Care of the Dog Used in Medical Researchを1951年に作成し,実験に使用される抑留犬の導入,管理および使用に関して社会的に容認されるように自主規制した。これをさらに発展させたものが米国で現在使用されているGuide for Care and Use of Laboratory Animals(Guide)であり,その第1巻もNathen博士らを中心作成され1963年に発行されている。また,Nathen博士はシカゴ大学の動物実験施設を他に先駆けて中央化した。その施設における動物の管理と使用をGuideにもとづいて評価するためにAAALACを設立した。AALASの初代会長となった彼は実験動物学創設の父といわれている。

 しかし,中央化した施設も研究者の都合により,1970年代半ば頃から反中央化が進んだ。中にはAAALACの認定に耐えない施設も現れたため,再度動物実験施設を中央化する計画が進められていた。私が滞在したのはそんな時期であった。今回訪れたところ,新たな中央動物実験施設が完成間近であった。その建物の建設に当たり個人が1億円を寄付したとも聞いた。米国の大学経営は,個人や企業からのドネーションに大きく依存している。わが国の国立大学は来年には独立行政法人化するというが,このような寄付をしてくれる篤志家や企業が現れるのであろうか。

 シカゴ大学における動物実験の状況については「シカゴ大学における倫理的動物実験の推進」と題して秋大HPに掲載している。

 1995年にはシカゴにあるイリノイ州立大学の動物実験施設も見学した。イリノイ州立大学の動物実験施設は10数年前に建てられた施設で,大きさは10,000_ほど。獣医師が全部で7人,animal care-takerが30人。秋田大学の動物実験施設と同時期に建設されているが,面積とスタッフの数はわが施設の4倍である。米国の物,人,金の底力を見せつけられた。動物はマウス,ラット,ウサギ,サル,カエル,イヌ,ブタ,ウーパールーパーなど多種,多数。ウサギは200匹ほどいたが,全てSPFで大型ケージに収容されていた。ウサギとラットの飼育装置は水洗式ではなく,床敷には紙パルプが,ラットではコーンコブが使われていた。

 動物の飼育室(主にウサギ,マウス,ラットなどの部屋)は前室を持っており,それぞれの照度が調整できるようになっている。大学の指針で飼育室の照明は暗くするようになっているとのこと。前室は動物の処置も行うため照明は飼育室に比べてやや明るくなっていた。また前室には実験内容により動物を隔離できるようなCubicleという空間が設けられ,陽圧にも,陰圧にも対応できるとのこと。5年前にニューヨークのコロンビア大学においてイヌの回復室で似たような物を見た。

 ここではサルの繁殖に力を入れているようで,ヒヒ,カニクザル,日本ザル,アカゲザル,ストーンテイルといったサルが多数飼育されていた。ストーンテイルというサルを初めてみたが,中型のサルで,腹が異常に膨れている。妊娠しているのかと聞いたらその個体は雄であるとの返事。新世界ザルの一種であるが,皆腹が膨れている。これらのサルのほとんどは繁殖のために飼育されており,実験に使われるものは少ないという。ヒヒなどもかなりの頭数を繁殖している。1年に何匹くらい生産しているのかと聞いたところ,明確な答えが返ってこない。英語での質問の仕方が悪かったのかと再度聞いてみても私が担当しているわけではないのでわからないとの答え。なぜかはっきりした数を言いたくないようであった。

 イヌはシカゴ大学と同様に抑留犬も使用されていた。「動物福祉法は米国内で一律に守られるべきものであるが,実施に当たってはその解釈が州あるいは自治体によってまちまちで,抑留犬の規制に関してもマサチューセッツやニューヨーク,ノースカロライナのように厳しいところから,シカゴのように比較的厳しくないところまで,州あるいは都市により大きく異なる」ということのようである。シカゴではいち早くGuideを作成し,自主規制により動物の適切な管理と使用に努めた。そのため一般市民の研究機関に対する信頼は厚く,それが今でも抑留犬の使用が受け入れられている理由の一つのようにも思える。

 シカゴでの暮らしぶりについては話が長くなるのでここでは控えるが,アル・カポネが没して50年以上を過ぎたのに夜は一人歩きできないほど怖い町である。そのため5時半には家路についていた。

Toronto

 最後にこれまで3度訪れたトロントについて記す。トロントはカナダのオンタリオ州の州都。人口65万人ほどの都市である。ここには1990年と1991年そして1996年に訪問した。最初と2度目の訪問はKO大学のM先生を先達に数人で東海岸の動物実験関連機関を調査したときのことである。写真4はCCAC会長のHarry C. Rowsell博士と最初の調査団一行である。それらの報告はアニテックス 2, 4-51とアニテックス 4, 4-30 に記されている。また,そのときの旅の状況は「東海岸かけ足の旅」と題して秋大HPに掲載している。

 1996年に訪れたときには,施設に収容されている動物も前回訪問時の半分に減少し,それにより職員も半減していた。施設の臨床獣医師であるDouglas Ikeda教授が言うには,カナダ政府は高校教育に力を入れ,大学への予算を縮小したために研究者は米国に流れた。そのために動物数も減っているとのことであった。あれから7年を経過したが,今はどうなっているのであろう。

おわりに

 我が家の近くにイオン秋田というショッピングセンターがある。郊外にあるにもかかわらず,休日には車の置き場もないほどの盛況ぶりである。これはトロントにある大型モールのイートンをまねて作られたという。先日トロントから戻られた方と話をしていたら,イートンは一昨年潰れたという。世の移ろいに驚かされた。独立行政法人後の秋田大学動物実験施設はシカゴ大学の動物実験施設のように個人や企業の寄付を背景にさらに発展していくのであろうか。それともトロント大学の動物実験施設のように国からの資金が減少して縮小していくのであろうか。

 本誌9号に熊本大学の浦野先生が中国で行われたJICAプロジェクトについて書かれていたが,私も短期専門員として北京と蘭州に行ってきた。そのときのことは「黄河の畔へ」と題して秋大HPに掲載している。

 約束の字数を過ぎてしまったようである。散歩どころかフルマラソンになりかねないので,この辺で終わりとする。

本文はLabio21 No.12(2003年4月)に掲載したものです。