黄河のほとりへ(1)

動物実験施設 松田幸久

 1994年は暑い夏であった。6月末に実験動物技術者協会の総会を秋田で開催し、その後始末もそこそこに、8月中旬から40日程中国に行ってきた。海外協力事業団(JICA)の依頼により北京の中国医学科学院にある実験動物人材培訓中心(実験動物技術者養成センター)で実験動物の飼育管理方法を中国の実験動物技術者に教えるためである。中国語も話せない私が彼らを教育するというのもおかしな話だが、実のところは日本である程度勉強を終えた中国人の講師達が中国全土から養成センターに集まった技術者に講義をするのであり、その際に、適切な内容を伝えているか否かをチェックし、講師達を指導するというカウンターパートが私の役目である。勿論通訳が密着し、多くの講師は日本語か英語を話せるわけで、彼らとの間ではそれほど言葉の不自由は感じなかった。

 中国に着いて最初に言葉で困ったのは北京空港の税関である。JICAの依頼で教育に必要な機材を携帯していたが、その梱包品に関して中国語で何か言っている。何を言われているのか全く解からないので「ひとり歩きの中国自遊自在」の税関検査の頁を広げる。すると梱包を開けろというセンテンスを指さした。梱包を開け中からでてきたスライドプロジェクターを説明しようとしたが、意味が通じない。スッタモンダした揚句何とか通関したが、電動式幻燈機と書けばすぐに通じたであろうと、横手出身で中国語が堪能なJICA職員の高橋氏から教わった。中国語の発音は日本語とはまるで違うが、筆談では意味が通じることを覚え、宿泊した亮馬ホテル近くで日本料理を出している「兆治」や「松子」の女性達との会話は専らこの手で行った。勿論会話の内容は世間話程度であるが。

 北京は思ったよりも治安が良い。女性の深夜の一人歩きも目につく。麻薬を所持しているだけで死刑となる国であるから、痴漢等の犯罪にも厳しい罰が下されるためなのか、それとも女性の権力が強いためなのか、チャイナドレスの下から太股をちらつかせている女性達にそれ程警戒の色はない。私の宿泊したホテルは亮馬河の辺にあり、夕刻になると涼を求める男女が川岸にあふれる。まるで夏の京都の鴨川べりなみである。散策ついでに覗いてみると女性の方は男性の膝の上で触れなば落ちなんの風情であるが、男性の方はどうしたらよいか途方に暮れている。その手のホテルがあったなら繁盛するだろうなどという下世話な考えはさておき、北京の住宅事情はかなり厳しいものらしい。結婚相手が見つかっても、住む家が簡単には手に入らない。狭い石作りの家に家族が犇めき、暑苦しい家を逃れた上半身裸の男達が日の暮れから夜更けまで道端で中国将棋に興じている。日本でも嘗て縁台将棋などというものがあったころは同じような住宅事情ではなかったろうか。

黄河のほとりへ(2)