卒業生・修了生の方へ

医学部卒業生の活躍

本学医学部を巣立ち、国内外で活躍する卒業生を紹介します。
母校秋田大学医学部のために寄稿いただきました。
ぜひ、ご覧ください。

  • ①2011年卒業(第36期生)カナダ国トロント大学病院 腹部移植・肝胆膵外科 後藤徹先生
  • ②1983年卒業(第8期生)秋田赤十字病院 健康部・予防接種センター長 遠田耕平先生
  • ③2022年卒業(第47期生)平鹿総合病院 宮地貴士先生
  • ④2020年卒業(第45期生)新潟大学医歯学総合病院 廣田有紀先生 NEW!

①2011年卒業(第36期生)カナダ国トロント大学病院 腹部移植・肝胆膵外科 後藤徹先生

後藤徹先生

こんにちは!秋田大学大学院医学系研究科/医学部2011年卒業(第36期生)の後藤 徹と申します!現在は北米最大の移植センターであるカナダ国トロント大学病院で腹部移植・肝胆膵外科医として勤務しています。

Toronto General Hospital

【秋田大学医学部教育の卒業後につながる実力形成】

秋田大学は皆様ご存じの通り国公立大学の中ではカリキュラムが厳しい大学の一つですが、カリキュラム外での教育にも熱心な大学と思います。

私は当時の生理学の教授の勧めで1年生の夏にオックスフォード大学に英語研修に行き、春にはピッツバーグ大学医学部に1か月留学しました。そこで見学したヒト臨床の移植手術に魅せられ、2年生から消化器外科の門戸を叩き、研究や臨床のカンファレンス、手術見学をする機会を頂きました。そしてラットを用いた外科基礎研究で日本外科学会総会での発表、フランスでの国際学会発表を経て学長賞を受賞しました。

この経験はその後の私のキャリアである北米最大の移植センターでアジア人唯一の外科医という現職に大きく影響しています。基礎研究を学生時代から行っていた経験は院生留学という道を切り開きましたし、大学から医学英会話に接した経験は現在北米で臨床医として勤務する基礎になっています。また学生時代からラットの肝切除手術を主体的に行い、多数の県内病院で手術に入らせて頂いた経験は、外科医になってから肝臓外科の手術コンテストで優勝したことの原点とも言え、学生時代からのすべてが今につながっています。『道に迷ったら最も厳しいと思ういばらの道を選べ。選んだら結果を出すまで曲げるな』という外科教授の言葉を実践してこそのキャリアです。この場をお借りして関係者の皆様には御礼申し上げます。

【現在の目標と将来展望】

私の専門は腹部臓器の『灌流保存』です。灌流保存とは日本のみならず全世界が抱えるドナー不足を解消する可能性を持ったGame changer techniqueです。特に先進諸国に比べ圧倒的に移植数の足りない日本ではこの問題は常に喫緊の課題です。

図

従来臓器保存のゴールデンスタンダードであった単純冷保存(臓器保存液に漬けて氷で保存する)と異なり、下図に示しますように人工心肺を使って、ドナーの腹部臓器全体(Normothermic regional perfusion)または個別(Ex situ perfusion)に臓器を灌流して保存を行います。灌流しながら栄養と老廃物の除去を行い臓器の状態をよりよく保存し、かつ灌流中に機能測定や臓器の治療ができるメリットがあります。先進国で臨床応用されている肝臓のEx situ perfusionでは、心停止後ドナーや高齢ドナー、脂肪肝ドナーを対象にその機能を測定し安全な移植を確立しています。また過小グラフトの再生肥大を目指す超長期保存(小さいグラフトを大きくして移植する)モデルや炎症性サイトカイン除去フィルター付きの灌流機器など日進月歩で開発が進んでいます。

移植臓器保存の革新的新技術

私はこの技術を学ぶためトロント大学 腹部臓器保存ラボにアジア人として初めて留学し、計250回以上の大動物の灌流保存および移植手術を行い、現在その功績から臨床で移植・灌流外科医として修練を積んでおります。2019年、2022年の国際肝移植学会では灌流保存の講師に選ばれ大動物モデルでのライブデモンストレーションを行いました。この最新技術を日本に導入し、移植医療をもっと多くの人に安全に行うことが目標です。北米と日本の二軸の考え方を持つ外科医として日本の医療をより良い方向に変えていくことができればと考え精進しています。

②1983年卒業(第8期生)秋田赤十字病院 健康部・予防接種センター長 遠田耕平先生

遠田耕平先生

今回は、秋田大学大学院医学系研究科/医学部を1983年に卒業(第8期生)し、現在は秋田赤十字病院の健康部・予防接種センター長の遠田耕平先生を紹介いたします。

遠田先生は、1993年からWHO(世界保健機関)の予防接種担当医務官として、ベトナム、インド、カンボジア、フィリピン等のアジア各国で定期予防接種の改善、ポリオ(急性灰白髄炎)根絶、麻疹、風疹、先天性風疹症候群、B型肝炎、新生児破傷風、日本脳炎、ジフテリアなどのワクチン接種対策や感染症対策事業の第一線で活躍され、WHOを定年退官されて2018年帰国後は、現職の秋田赤十字病院健康部・予防接種センター長として引き続きご活躍されております。

以下は、遠田先生の活躍をまとめた「本道第34号」寄稿のからの抜粋です。(一部今回のホームページ掲載用に内容改変しております。)

○海外赴任に至るまで

都立戸山高校を卒業して2年浪人し、やっと秋田大学の医学部医学科に入学した。ところが、在学中に大学を抜け出しカンボジア難民キャンプに行くや、すっかりアジアに一目ぼれ。ボクは早く外科医になってアジアで働きたいの一心となった。1983年に医学科を卒業した後は消化器外科にて研修に従事し、その後当時の恩師の薦めで大学の病理学教室で助手として研究生活に没頭し、博士号を取得しました。その後は、周りに支えられながら3人の子供と女房を連れてロンドン大学に留学し熱帯医学を学び直し、1991年にはロンドン大学で熱帯医学の修士号を取得します。一方で、途上国へと思いのたけは募れども、仕事が見つけられずに帰国。再び大学のお世話になります。それから2年してなんとかWHOの医務官の職を得て30半ばで初めて家族を連れてベトナムに赴任することになりました。つまり、本当に怖いけど本当に優しかった当時の秋田大学の教授やスタッフたちに見守られながら僕は育ち、きちんと日本から脱線して夢見た途上国に巣立っていったということです。

それから30年間、臨床を離れ、予防接種の分野でWHO医務官としてベトナム、インド、カンボジア、フィリピン等のアジアの国々で暮らします。現地の行政官たちと大河を渡り、山河を超え、地雷原を渡り、紛争地に入り、国境をまたいで現場を走り回るそのインディージョーンズ?さながらの壮絶な冒険の話はまた別の機会で。。。今回は天然痘根絶の成功で勢いづいたWHOが第2の根絶目標に決めたポリオ根絶対策と僕の20年間の現場。その泥にまみれた一部をご紹介し、ウイルス根絶計画の光と影を感じていただければ幸いです。

○ポリオ根絶計画の始まり

◆ポリオウイルスとは?

ウイルスの根絶には3つの必須条件があります。
1.人間にしか感染しない病気であること。
2.目に見える急性の感染症であること。
3.優れた質のいいワクチンがあること、です。
が、ポリオはここで、すでに影を落としています。ポリオウイルスは腸管のエンテロウイルスの一つ。腸管上皮で増殖し、便で排出され、糞口感染で広がる。1型、2型、3型の異なる近縁のウイルスが存在して、そのそれぞれが流行する。いずれもリンパと血流に乗って脊髄の前核まで到達し運動神経核のリセプターにくっついて運動神経のみを破壊する。すると発熱の数日以内に急に筋肉がだらんと動かなくなるマヒ(急性弛緩性麻痺)を起こし、四肢、体幹に生涯マヒが残り続けることになる。ただし、この神経麻痺を起こす子供は200~300人に一人で、残りの人は軽い風邪症状と不顕性感染で終わります。そのことは幸いでもある一方根絶の観点から言うと症状発現がほぼ100%の天然痘や、麻疹等のウイルスと違って、伝播しているウイルスの姿が見えない。患者を探し出していくサーベイランスは困難を極める。患者を一人見つけてもそれは氷山の一角で、逆に氷山の一角を見つけ出せないなら、とんでもない数の感染の広がりを見逃す可能性があるということになるのです。

◆ポリオワクチンの登場

1950年になると、ポリオはこんな難しさを持つ感染症でありながら、感染対策の希望はその優れた経口の弱毒生ワクチンが登場したことでした。1950年代にユダヤ系アメリカ人のアルバートセービン博士が9000頭のサルの腎臓の細胞を使って1型、2型、3型の3種類のポリオウイルスをそれぞれ継代してそれぞれの弱毒株をついに見つけ出し、3つを混合した経口生ワクチンを作り出しました。これよりも少し前に同じアメリカ人のジョナスソーク博士がホルマリンで不活化した注射のワクチンを作っていたのですが、腸管の免疫ができないために流行が止まらない。一方セービンの経口生ワクチンは当時のソ連で大規模の臨床試験がされ、流行が止まります。実はちょうど1959年から1960年に日本でも戦後最大のポリオ流行が起きて5000人以上の子供がマヒになります。セービンの生ワクチンの効果を聞きつけた日本の母親たちは割烹着を着て当時の厚生省の廊下に徹夜で座り込み、ワクチンの緊急輸入を古井厚生大臣に迫るのです。当時の医学界は慎重でこの新しい生ワクチンを承認しませんでしたが、古井大臣はその未承認ワクチンを1000万ドース緊急輸入するという大英断をします。その効果は絶大なもので、ポリオはその後激減します。ワクチンキャンペーンとその後の春秋年2回の定期接種で、日本のポリオは1980年を最後に消滅します。

1960年代から1970年代にかけてセービンの経口ポリオ生ワクチンが世界中の先進国で使われ、欧米各国は日本と同様に1980年代にはポリオに終止符を打ちます。ところが世界の人口の2/3を占める途上国では1980年代になっても毎年数十万人の子供たちがポリオで生涯のマヒを抱え、苦しんでいました。その頃東南アジアを歩き始めた僕が街頭で必ず体験するのが、食堂に入ると汚い床を這って、いざって、僕の脚にすり寄って物乞いをするポリオの子供や大人たちでした。そんな状況の中でWHOのアメリカ支部(PAHO)が1980年代にいち早くブラジルを中心とする中南米で経口生ワクチンの一斉キャンペーンを実施し、ワクチンでポリオの根絶に成功します。天然痘撲滅に勢いづいていたWHOは世界のポリオ根絶に動きます。1988年のWHOの世界保健会議で世界のポリオ根絶計画が採択されます。実は中南米のポリオ根絶が成功したのは天然痘撲滅でアフリカやインド、バングラディシュを走り回ったWHOの猛者たちが主導したからでした。そして彼らは僕のフィールドの師だったのです。WHOで天然痘根絶部長を務めた蟻田功先生の薫陶を受けて、1989年に僕は地球の反対側のブラジルまで行ってポリオ根絶の現場を体験する機会を得ます。そこから僕のポリオ根絶への旅が本格的に始まります。

○ベトナムに赴任

ワクチン

本格的に僕が現場でポリオに取り組んだのは1992年の暮れ、36歳の時。小学校低学年の3人の子供と女房を連れ、当時やっと門戸を開き始めたベトナム南部のサイゴン(ホーチミン市)に赴任した時からでした。そこは東南アジアでも最もポリオの流行が残る場所でしたが、臨床医だった僕に何ができるのか?公衆衛生って一体何なのか。一体何から始めたらいいのか?頼れる人もいない、たった一人で保健省のパスツール研究所に入ると机もない、椅子もない。そもそも言葉が通じない。ベトナム語の辞書を片手に英語を混ぜながら手振り身振りの生活が何か月も続きます。変なベトナム語を話す変な日本人と出会ったベトナム人たちと僕との珍道中が始まります。それでもベトナムの人たちは優しかったのです。僕にできることはとにかく地方に出て、病院を歩いて患者を探すこと。便検体を集めて、ウイルスの分離のできるラボを作り、確定診断する。ワクチンの全国キャンペーンを準備して実施を手伝う、またフィールドに患者を探しに行く。愚直に、実に愚直に、ベトナムの保健省のスタッフに助けられながら共にフィールドを歩き続けます。自分のやり方がわかるまで。今思えば、がむしゃらに歩く僕を見守ってくれたベトナムのスタッフはすごいの一言。今でも時々思い出す言葉があります。ある県の衛生局長が足元に這ってくるポリオの物乞いを見ながら僕に向かって言います。「トーダ、お前は頑張っているけど、ポリオがなくなるわけないよ。もしなくなったら、お前の銅像を建ててやるよ。」と。それくらいポリオの患者がいたのです。僕と昼夜フィールドを歩いた保健省のスタッフは「トーダは外国人なのに、なんでそんなに一生懸命にベトナムのために地方を回るのかわからない。」と。自分でもわからなかった。それしか不器用な僕にできることがなかったのです。まるで何かにとらわれたように。ふとこのままこの地で死んでもいいんだという思いが頭をかすめた頃、ベトナムのポリオの伝搬が止まります。貧しさと様々な困難の中でやり遂げたベトナムの人たちに脱帽。もちろんトーダの銅像は建っていません。

○長い旅の途中

ベトナムのあともインド、カンボジア、フィリピンと、僕の現場を放浪する旅はまだまだ続いていくのですが、今回はスペースの都合もありそれは別の機会で。。。

40年前、秋田大学の一学生が日本という重い扉を開けてみたら外の世界は意外にも優しい人たちで溢れていたのです。僕は希望で胸を一杯に膨らませて、家族と共に外に飛び出し、情熱のままに走り続けた。そして本当に数えきれないほどのたくさんの優しい人たちに助けられてきた。これからどこへ行くんだろうか。やっぱりまだ「長い旅の途中」。肉体が滅びて、心がなくなっても、この広い空の下で土に帰る。人生はあっという間だけど、自然はちゃんとそこにある。そして季節を刻む。あの田圃の畔に咲く雑草の小さな花の傍らでも。

いずれにせよ今、僕が秋田にいること、豊かな自然と優しい人たちが一杯いるこの秋田にいることが、僕の旅の途中のとても大事な、とても自然な、とてもちゃんと用意された出来事なのではないかと思っているのです。僕の放浪の旅は今のところまだ続きそうです。

遠田先生の長年のご活躍は、今回の限られたスペースではご紹介しきれませんが、先生のご活躍は『WHO医師のアジア放浪記』として本にまとめられ、発行されております。

WHO医師のアジア放浪記

遠田先生からは今回「多くの秋田大学医学部の同窓生に読んでいただけるならこれ以上の幸せはありません。」とお話をいただいております。ぜひ手に取っていただき、遠田先生の放浪の旅を一緒に追ってみてください!

③2022年卒業(第47期生)平鹿総合病院 宮地貴士先生

2022年に秋田大学医学部を卒業し、現在は、秋田県横手市にある平鹿総合病院で初期研修医2年目として働いております。

私は、学部3年生の時にアフリカ・ザンビア共和国での診療所建設や現地医学生に対する奨学金といった医療プロジェクトを立ち上げました。ザンビアは1964年10月24日、東京オリンピックの閉会式の日に旧宗主国のイギリスから独立した非常に若い国です。現在の人口は約2,000万人ですが、世界銀行の報告によれば2050年には約3,700万人まで増え、その後も上昇傾向と予測されています。医療体制も日進月歩です。国民皆保険制度は2019年10月からスタート、高度医療に関しては心臓のカテーテル検査を例にとると、国立病院で2019年11月からようやく実施可能になり年間100件程度実施されている状況です。私は、そんな発展著しい国に、将来、臨床医として戻り、現地の人たちと汗水流したいと考えています。

③2022年卒業(第47期生)平鹿総合病院 宮地貴士先生

ザンビアでの活動拠点は首都、ルサカから北東に130km離れたところに位置するマケニ村です。周辺人口を含め5,000人ほどが暮らしています。現地で活躍する日本人医師、吉田修先生のご紹介で2017年2月に初めて訪問しました。そこから6年に渡り資金調達に取り組み、2022年3月に診療所がオープンしました。スタッフや医薬品などはすべて現地保健省から供給されています。

③2022年卒業(第47期生)平鹿総合病院 宮地貴士先生

毎日平均40人程度の患者さんが利用し、多くは上気道感染症や腰痛、膝痛といった整形疾患であり、マラリアやビルハルジア住血吸虫といった熱帯に特徴的な疾患もみられています。2022年4月から12月までに52件のお産があり、45人の赤ちゃんが産声を上げました。残りの内6件は、胎盤遺残、臍帯脱出、重症妊娠高血圧、マラリア合併妊娠、妊娠28週といったケースであり近隣の医療機関に救急搬送されました。残念ながら村で1件の死産があり、16歳の少女がお産した6か月の未熟児でした。ザンビアでは看護師が薬の処方からお産の対応、創部縫合からワクチン接種といった公衆衛生活動まで幅広く活躍します。マケニ村のクリニックには二人の看護師が働いています。プライマリーケアの対応はこのクリニックでできますが、高度な医療は提供できません。帝王切開などの手術が必要な症例は100床規模の郡病院(ザンビア全土に郡は116個、日本の都道府県と同じような単位)に搬送されることになります。

③2022年卒業(第47期生)平鹿総合病院 宮地貴士先生

こういった医療機関に勤める人材を育成しようと、2019年2月に僻地出身者に対する奨学金を立ち上げました。マケニ村出身の青年、ボーティン君が私立のカベンディッシュ大学医学部に合格し彼の学費をサポートしています。2024年1月に大学を卒業し、Medical Licentiate(ML)と呼ばれる医師と看護師の中間に位置する専門資格を取得する予定です。MLは僻地病院において帝王切開などのPrimary surgeryと呼ばれる手術、腰麻、脊髄くも膜麻酔まで行うことが可能です。様々な土地で経験を積んできてから、またこの地域に戻ってきて欲しいと願っています。

私自身は「せんべろ」で有名な東京都北区赤羽出身です。秋田に残り研修をしていると、「なぜ秋田なの?」とよく言われます。この理由を一言でいうとザンビアの活動を通じて秋田の方々に大変お世話になったからです。クリニックの建設費用は秋田ロータリークラブをはじめ、多くの個人、団体からご寄付をいただき、秋田大学の先生方や先輩方にも多大なるご支援をいただきました。資金集めの一貫で、ザンビアの文化を日本人にも楽しんでもらおうと、ザンビアの主食であるシマ(トウモロコシの粉)を生地に使ったザンビア風お好み焼きを考案し、日本各地で屋台販売をしていました。このお好み焼きの材料を大潟村の有機農家、相馬さんや大舘の精肉店、花岡商店さんなどから協賛いただいてました。少し脱線しますが、私の母も秋田の大自然からの恵みに感動し、2018年には一緒に地元の赤羽で秋田の食材を使った定食屋さんをオープンしました。店名は「赤羽定食屋農のう」です。是非、東京にお越しの際はご利用ください。ザンビアの活動を通じて秋田にどっぷりつかるとは想像もしていませんでしたが、これだけ多くのご縁を頂いたことが私が秋田で研修したいと思ったきっかけです。

私が秋田大学に入学したのは、教育に力を入れ、人間性をしっかりと評価していると感じたからです。秋田大学医学部の入学試験の際、2次試験における面接点の割合が全国でトップレベルに高かったのを覚えています。人間性の重視というアドミッションポリシーが実際に入試の評価項目に入っている点に感動しました。地方の大学だからこそ、教授、大学事務と学生の距離が非常に近くアットホームな雰囲気が醸成されています。私はザンビアで村の人口といったデータすらまとまっていない現状に直面し、疫学研究の重要性を痛感したため、医学科5年時に医学部公衆衛生学講座、野村恭子先生の門をたたきました。先生方が取り組まれていた秋田県のトラック運転手における不眠症や交通事故に関する疫学調査に参加させていただきました。先生は会議が入っているとき以外、いつも自分の部屋の扉を開けてくれています。先生の空き時間になると作業スペースに表れて「順調?コーヒーでも淹れようか?」と声をかけてくれます。統計手法や解析結果のディスカッションを雑談のように気軽にできます。先生の手厚い指導でこれまでに4本の英語論文を原著で発表させていただきました。その内、2本は当時医学科2年生だった菅野勇太君と3年生だった安藤友華さんが筆頭です。学部の低学年から英語原著論文を発表できる機会がある秋田大学は非常に恵まれた学習環境だと思います。

現在は日々の臨床でてんやわんやですが、秋田県の医療を支えてきた先生方から知識、技術を学ばせていただいています。どの薬を処方するかという一つの行為を取ってみても、医療が医学に基づく人の営みであり、先人たちの経験とエビデンスに依拠するものだと実感しています。自分もその営みを担う立場になった責任をかみしめながら、過去から脈々と受け継がれてきたこの営みを国境を越えて後世に残していく、そのために、秋田で学び世界を舞台に戦える臨床医になるべく研鑽を励んでいきます。

④2020年卒業(第45期生)新潟大学医歯学総合病院 廣田有紀先生

秋田大学大学院医学系研究科/医学部2020年卒業の廣田 有紀と申します。
新潟県新潟市出身で、大学から秋田での生活が始まりました。

6年間の大学生活を経て、2020年3月に医師免許を取得いたしました。しかし4月からは研修医を延期し、地元の新潟アルビレックスランニングクラブで実業団選手としての活動を開始しました。
そして今年4月から、実業団に所属する傍、新潟大学医歯学総合病院で研修医1年目として勤務しています。

秋田大学在学中

私は、小学校5年生から陸上競技800mという種目を続けてきました。恩師との出会いもあり、高校3年生のインターハイで優勝することができました。
大学進学後は、医学の勉強と並行して走るつもりはありませんでしたが、陸上競技部の方々から勧誘もあり、大学1年の4月から全学と医学の陸上競技部に所属して活動していました。
初めは、慣れない大学生活と練習環境の変化、受験後のブランクから高校の自分には到底及ばないレベルでした。何度もこのまま陸上競技はやめてしまおうかと頭を過りましたが、部活の仲間の支えのおかげで、大学3年時の日本選手権で5位に入賞することができました。同時期に2020年東京オリンピック開催が決まり、医学と並行して、陸上競技の夢としてオリンピック出場を目指したいと思うようになりました。そこから徐々に記録がのび、大学5年時には自己最高記録で4位に入賞することができました。レース後、ふと「医学と陸上を並行していなかったらもっと記録がでているのでは」という考えが浮かび、家族に相談し、2020年本来研修医を始める年に、陸上一本に絞ってオリンピックを本格的に目指すことにしました。

(↓左が秋田大学医学部陸上部の集合写真、右が学生時代の日本選手権の写真です)
集合写真 日本選手権

大学卒業後

東京オリンピックに向けて、陸上1本で活動できると思っていた矢先、コロナウイルス感染症により大会の延期が決まりました。
新型ウイルス感染症により、医療従事者の声をニュースで聞くたびに、研修医を延期してまで、陸上1本にすべきだったかと葛藤する毎日でした。
大学の同期や地元の方々から、「走る姿に元気をもらえている」という心強い言葉をいただき、いつオリンピックが開催されるかわからない中でも『今できる最大限の努力を重ね、過程で納得できるように過ごす』と決め、夢に向かって練習を重ねました。
陸上教室や講演会など地元の小中高校生と触れ合う機会が増え、エールをもらうことで、一歩ずつ進むことができました。
2021年日本選手権。東京オリンピック代表選考であるこの大会で、2位という結果に終わり、目標は果たすことができませんでした。その後もこの悔しさをバネに2022年も陸上1本の年を過ごしましたが、怪我が重なり、日本選手権にすら出場することができませんでした。目標が達成できない年が続いたことを踏まえ、2023年からは研修医を始めることを決意しました。

(↓左が陸上教室、右が代表選考の日本選手権の写真です)
陸上教室 日本選手権

初期研修医スタート

陸上への未練もありつつ、始まった初期研修。学生の頃、経験した実習とは想像以上に異なり、毎日一進一退している状態です。国家試験からのブランクもあり、知識面でも齷齪していますが、陸上一本とはまた違う充実した毎日を過ごせています。
同期や、上級医に恵まれ、これまで続けていた陸上への理解もあり、勤務と並行して陸上選手としても活動し続けています。
現在の目標は来年パリオリンピック代表を決める日本選手権です。開催地が地元新潟ということで、これまでお世話になった新潟の方々に感謝をこめた力強い走りができるよう練習に励んでいます。
2年間の研修医生活の中で、さまざまなことを学び、本格的に始まる医師としての人生に生かしたいと思います。
「二兎追うものは一兎も得ず」なんて言わせません笑!

各種証明書の申込方法及び発行について

各種証明書(卒業・修了証明書、成績証明書等)の発行は次の方法により、発行される証明書の対象となる卒業生・修了生本人が申し込んでください。