動物とヒトとのかかわり

-特に医学において動物実験が果たした役割-(1)
はじめに

 地球が誕生して50億年、その地球に生命が誕生して45億年、そして4億年前の古生代デボン紀に魚類から進化した両生類が水中から陸上へと進出し、は虫類、鳥類、哺乳類を経て今から100万年前に人類が誕生したとされています。それから人類はこの地球上で動物と共存してきました。初期の人類は力も弱く、2万年前の旧石器時代には地球上の人口はわずかに200〜300万とされています。しかし、人類は道具や言葉を使うことを覚え、文明が超速度で発展して、現在60億を超え、この地球上で最も力をもった生き物となっています。
 人類誕生とともに始まった動物との付き合いは、さまざまな形態をとりながら今日まで続いています。最初はお互いを餌として戦い、その後家畜として人類が動物を利用してきました。現在はコンパニオンアニマルとしての地位を確立した動物もおります。最近になって動物と人との付き合いかたに対しさまざまな意見がでております。とくに医学の研究領域における動物の使用に関して激しい論争があります。先進各国ではその取り扱いに関する法規制が整備されてきており、そのような中でわが国でも昨年の暮れに「動物の保護及び管理に関する法律」が26年ぶりに改正されました。動物との付き合いかたは今後もさまざまに変化していくと思われますが、改正された法律も長く続くものではないことは改正法の付則第2条にも記されている通りです。

 そこで今回の講演では、医学の研究領域における動物の利用は今後どのようにあるべきかを探るために、温故知新の意味合いをこめて、人類と動物がかかわってきた歴史を医学における動物実験を中心に述べてみることにします。

ギリシャ時代以前

 人類は100万年程の間は狩猟生活をしていました。右の図はラスコーの壁画ですが、数10万年続いた旧石器時代の終わり頃、今から2万年程前に描かれたとされています。この壁画には動物の中でも危険な種類のものだけが描かれています。それらの動物は当時の原始人にとっては大切な食料となるものですが、生命を脅かす恐ろしい存在でもありました。したがって、それらの動物に対して畏敬の念を抱いていたようです。アイヌの人々が山の恵としてクマを捕らえ、死んだクマを神として祭ることに通ずる考えのようです。
 当時は小動物も沢山食べられていたことが洞窟の床のごみから判明しています。しかし、そのような小動物は壁画に描かれていないことから、このころの人類は大型動物に対してだけ畏敬の念をもち、動物の生命全般に対する畏敬の念は持ちあわせていなかったものと思われています。



ラスコーの壁画


犬の家畜化

 ラスコーの壁画が描かれてから1万年を経過した頃、つまり今から1万年程前の新石器時代に人類は作物を作ることを覚えます。また野生動物を家畜化し、それらを飼うことを覚えます。最初に家畜化されたのはイヌです。イヌの祖先はオオカミですが、オオカミが家畜化されたのが新石器時代の少し前14,000〜12,000年前頃とされています。その頃はまだ人類が狩猟生活をしていた時代であり、オオカミが狩りの手伝いをしてより人と親しくなり、今のようなイヌへと進化してきたものと思われます。

 左の絵はエジプトのイピ王の墓に描かれているイヌで、これをみると紀元前1000年頃にはイヌがペットとして飼われていたようです。このイヌにオオカミの面影はありません。

 古代の居住地跡から発掘される動物の骨の研究から、ヒツジやヤギが家畜化されたのが9,000年前、牛と豚が家畜化されたのが8,000年前とされています。

 紀元前3,000年頃になるとエジプトに統一国家がおこります。この国家はナイル川のほとりで多くの穀物を生産することにより繁栄しました。貯蔵している穀物を荒らすネズミを退治するために山猫からネコが家畜化されました。古代エジプト人は多くの動物を神として崇めていましたが、特にネコは豊穣の神として大切に扱われました。
 このように古代人は自然や動物に敬意を払っていたようです。このような考えは先程例に上げたアイヌの人々やアメリカインデアンにも通じるものがあります。また、病気は超自然的な現象であり、それを治すためにまじない師による魔術的な方法がとられていました。

ギリシャ・ローマ時代

 ギリシャ時代になるとピタゴラス等の哲学者は超自然的な考えから脱して、病気に関しても自然現象としてとらえ、その原因を科学的に探ろうとしました。その中でも、医学の父と呼ばれるヒポクラテスは病気が神の仕業であるとの考えを排して、病気を科学的に治療し、医療に数々の貢献をしました。死後に弟子達によりまとめられた「ヒポクラテスの誓い」の中には「安楽死の禁止」と「医者の守秘義務」が書かれています。この医者の行いを規定し、医の倫理を説いた「ヒポクラテスの誓い」は現在の医師のあるべき姿にも通用するため、幾つかの医学部では今でも卒業時にこれを読ませているそうです。
 また、ヒポクラテスは「人生は短く、技術は長い」という言葉も残しています。この言葉の後に「チャンスは逃げやすく、実験は危険をはらみ、判断は難しい。」 と続きます。なかなか意味ありげな言葉です。

 私なりに解釈すると、「人の一生は短いが、技術は人から人へと長く受け継がれていくことができる。功を焦っていい加減な実験をすると判断するのに難しい結果しか得られない。だから実験は長年培われたしっかりした技術を用いて、周到な計画のもとに行われるべきだ。」ということになります。現代の科学にも十分に通じるように思うのですが、我田引水的な解釈でしょうか。

 哲学者のアリストテレスはヒポクラテスよりやや後の紀元前4世紀のギリシャ人で、動物を解剖し、その構造を研究しています。ガレノスはギリシャ医療に実験的証明という方法を導入した人ですが、彼は医学の基礎として解剖学を重視しました。当時は人体の解剖が許されていなかったためにサルやブタを解剖して動物の体の構造や生理機能を研究してギリシア医学の集大成を行いました。ガレノスの学説は16〜17世紀まで通用しました。
 時代は移りギリシャが衰え、ローマが繁栄します。ローマの全盛時も医療はギリシャ人に任されていました。しかし、ローマ人も上水道や下水道を整え、公衆衛生の面で医学に貢献しています。


コロッセウム
 その一方で多くの奴隷を得て退屈している市民に娯楽を提供するために各皇帝はコロッセウムでハンテイグショウを繰り広げていました。奴隷と動物を戦わせて楽しんでいたのです。動物を集めて飼育するだけでも莫大な費用がかかったことからこのハンテイングショウは自然消滅します。

 313年にローマ帝国でキリスト教が公認されますが、それから15世紀までキリスト教圏には医学の暗黒時代が到来します。病気になるのは神罰が下ったためであり、病気を治すにはひたすら祈り懺悔するしかない。また神聖な体を解剖するのは神の教えに反するとして解剖も許可されませんでした。ギリシャ医学はアラビア医学に継承され、そこで生き延びることとなります。
 キリスト教がローマ帝国で公認されたころから、ゲルマン人の大移動が始まります。ゲルマン人の大移動により476年に西ローマ帝国は滅び、西ヨーロッパ諸国ができます。そして封建制度のもとにキリスト教が西ヨーロッパ各地に広まっていくことになります。
 その頃の東洋の世界では、紀元前5世紀にインドに発祥した仏教がアジア各地に広がります。日本へも538年に仏教が伝えられています。また7世紀初頭にはマホメットがイスラム教を開きます。
 ここで各宗教における動物に対する考え方を比較してみます。古いキリスト教の考えでは「世界は適者生存の原理に支配されている。人間は支配者であり、思うままに他の動物を利用する権利がある」とされています。それは創世記第1章28節において、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」という記述からも明らかです。
 これに対して、仏教では「生きているものはすべて尊重し、すすんでこれを殺すか傷つけてはならない(ただし、殺生に関しては生業とするものはやむを得ない)」としています。厳格な仏教徒は蚊も殺さなかったそうです。仏教圏においては輪廻転生という思想があり、霊魂の存在を信じ、動物の魂を慰めるための行事が行われています。わが国でも毎年
実験動物慰霊祭を行っている大学も多いようです。
 イスラム教では「すべてはアラーの思し召し」とされていますが、動物観についてはよくわかりません。
 宗教に根ざした動物に対する考えの違いを歴史上の人物の言葉から拾ってみると、紀元前4世紀のギリシャの哲学者アリストテレスは「自然はすべての動物を人間のために造った」といっており、13世紀のイタリアの神学者トマス・アクィナスナスは「神学大全」において「殺しても、その他どんな方法によってでも人間は動物を自由に利用することができる」と言っています。
 それに対して江戸時代(18後半〜19世紀前半)の日本の俳人小林一茶は「雀の子、そこのけそこのけお馬が通る」、「痩せガエル負けるな一茶ここにあり」、「やれ打つなハエが手を擦る足をする」などの句を残しています。仏教思想に根ざした一茶の小動物や昆虫に対する思いやりがうかがわれます。
 20世紀のインドの思想家マハトマ・ガンジーは「国家が偉大であり、道徳的に進歩しているかどうかは、動物の取り扱い方によって判断される」と言っています。

中世のヨーロッパ

 さて西ヨーロッパにおいてローマ教皇の権力は各国王の権力をしのぐようになります。キリスト教に反する考えに対しては宗教裁判が開かれます。中世のヨーロッパでは「動物にも魂がある」などといったら異教徒とみなされ、魔女狩りの対象とされました。東洋の思想では到底考えられないことです。
 また、このころのヨーロッパではローマ時代のコロシウムと同様、退屈な農民や貴族の娯楽として熊いじめや牛攻めが行われていました。右の絵はその当時の牛攻めの風景です。牛を飼育している農家は牛を肉屋にだす前にこの牛攻めにだすことを法律で義務づけられていたそうです。


牛攻め
イギリスでは19世紀前半に動物愛護団体が設立されるまで、牛攻めが続きました。この牛攻めのためにイギリスで改良されたイヌがブルドッグです。スペインではこの牛攻めが闘牛という形となり、今も残っています。

近世のヨーロッパ

 ローマ教皇は勢力を拡大してきたイスラム教徒を追い払うために西ヨーロッパの諸侯に十字軍派遣の指令を出します。しかし、十字軍は200年にわたる勢力争の結果イスラム勢力に破れ、ローマ教皇と西ヨーロッパ諸国の王の力も衰えます。そして西ヨーロッパでは封建制度が崩壊していきます。このとき十字軍の出発地として商業や交通が盛んとなったイタリアの各都市が経済力をつけてきます。そこでは封建的なしきたりにとらわれない、人間的な生き方を求める動きが高まり、かつて人間的に自由な生き方をしていたギリシャローマ時代の学問芸術を復興させるルネサンス(文芸復興)が起こります。
 ローマ法王の力も衰えて、このルネサンスの時代に医学もようやくキリスト教の呪縛から解放されます。1300年頃に人体の解剖がイタリアのボローニャで最初に行われましたが、これは人体の解剖は神の教えに反するとしたキリスト教の戒律を覆す画期的な出来事でした。人体の解剖図ではレオナルドダビンチ等の芸術家も多くの業績を残しています。下の絵は1493年にベネチアで出版された医学書にみられる解剖講義の場面です。その後、ベサリウス, ハーベイといった近代医学の幕明けを担う人々が登場してきます。イギリスではエリザベス1世が即位した頃ですが、このころは「英国は女性の楽園にして、男性には煉獄、ウマには地獄なり」といわれた時代です.

 ベルギー人のベサリウスは近代医学の創始者ですが、イタリアで医学の研究をし、1543年に「人体の構造について」を発表します。イギリス人のハーベイもイタリアのパトバで医学を勉強し、1628年に「血液循環論」を発表します。
 このころ日本では世界初の動物保護法とでもいうべき「生類哀れみの令」(1687)がつくられています。綱吉が死ぬまでの約20年間この令が施行されました。
 18世紀の後半からイギリスを中心に産業革命が起こりますが、その前後のヨーロッパにおける動物に対する考え方をデカルト、カントおよびベンサムが述べています。フランスの哲学者であるデカルトはキリスト教の影響を引き摺っており、動物機械論を唱え、人間が動物を道具として利用することを正当化しています。


    デカルト(1596〜1650、フランスの哲学者)
     動物機械論
    • 動物には精神(魂)がないから「単なる機械」である。
    • 人間には精神があるから「単なる機械」ではない。
    • 人間だけが精神(理性)をもっている証拠は人間のみが言葉を話すからである。
    • したがて人間は動物を道具として利用するができる。

    カント(1724〜1804、ドイツの哲学者)
     目的論
    • 動物には自意識がない。
    • 動物は単に目的の手段としてのみ存在する。
    • その目的とは人間である。
    • したがて人間は動物を道具として利用することができる。

    ベンサム(1748〜1832、イギリスの哲学者)
     功利主義思想
    • 道徳的に正しい行為とはこの世の中にできるだけ多くの幸福をもたらすことである。
    • 苦痛は道徳の最大の敵である。
    • 私たちが道徳的であろうとするならば、痛みを感じる存在に対して、痛みを与えてはならない。
    • 動物も感覚があり、苦痛を感じることができるので、道徳的に扱われる権利がある。
    • したがてその権利を法律で守ってやらなければならない。

ルネッサンスの医学


 このベンサムの考えが、1876年に制定されたイギリスの動物虐待法の基になっており、そして今日の動物権思想の基になっているようです。



続く