イヌ実験室の今昔など



一恵まれた現在の環境一
心臓血管外科学講座 阿部忠昭弘教授
 私がはじめて動物実験の手ほどきをうけたのは、昭和33年東北大学の応用生理学教室においてでした。大学を卒業して1年間のインターンの後、大学院学生として第2外科教室に人局しましたが、ただちに応用生理学教室への出向を命じられ、ポーラログラフ法による脳組織酸素濃度測定のテーマを与えられました。イヌを用いて針電極を直接脳組織内に刺入しての実験でしたが、イヌの呼吸管理には気管切開を行いガラスで作ったカニューレを気管内に挿管していました。なお、、人工呼吸の場合にはカニューレをフイゴに接統しそれを足で踏んで行っていたのです。イヌが死亡しないかぎり実験を継続するのが原則でしたので、その間延々とフイゴを踏む必要がありました。その結果最長30時間以上も夜を徹してフイゴを踏み続けたこともあったのです。

 2年後に外科の教室に戻って低体温研究班に所属することになり、超低体温下開心術の研究に従事することになりました。当時のイヌ実験室は半地下になっており、死にかかった実験中のイヌがそこかしこに転ろがっており、吐物や排せつ物が散乱して足の踏み場もないぽどでした。その汚なさといったら、今から考えると医学の研究を行っているとはとても思えないぽどだったのです。ちなみに、イヌの生存実験手術で圧布は煮沸しただけで乾燥のしていないグジャグジャのものを使用していたし、ガーゼなどは何回となく再生して、これまたグジャグジャのものを使っていました。また注射器や針なども煮沸消毒を行っていました。イヌは餌として残飯があてがわれて栄養もままならなかったせいもあるのですが、術後縫合部はことごとく感染して縫合不全となり、内臓がとび出して死んでしまうという状態だったのです。なお、当時の大学病院におけるヒト様の手術は、研究室に隣接して外壁が総ガラス張りの(夏はものすごく暑くなる)臨床講堂を兼ねたドーム状の手術場で行っていました。これは床に水を流して掃除をするいわゆる湿式の手術場でした。

 昭和37年、大学院卒業後間もなく私はハーバード大学レバイン教授のところに留学のため渡米しました。初めのうちは私の貧弱な語学力のせいもあって公衆衛生学部のラウン教授の下でもっぱら動物実験に従事しました。イヌの冠動脈に細いビニール管を挿入しそこからジギタリスを注入してシギ中毒を発生させる実験や直流除細動に関する基礎的実験を行うことになったのです。そのときのイヌの実験室が当時の日本の大学病院のヒト様の手術室よりもはるかに立派できれいだったのには本当に驚いてしまいました。当時アメリカでは、イヌの実験用にデスポーザブル(使い捨て)の注射器や注射針をすでに使用していたのです。圧布は消毒済みの乾燥したものであり、ガーゼも新品を無制限に使用でき、イヌの餌にはドッグフー ドを用いていました。



 あれから四半世紀を経た昨年の秋に、私は中国甘粛省蘭州市の招請により同市第一人民医院で2例の僧帽弁置換術を行う機会に恵まれました。一生に一度といえるほどの熱烈歓迎をうけ、関係者の絶大な協力をえて幸いにも手術は大成功でした。しかし、同医院の手術場の設備に関して歯に衣きせないでいうなら、現在の本学動物実験施設のイヌ用実験室に及ばない状態なのです。私は20数年前の米国留学当時の日米における実験設備の格差の大きさに想いをはせ、感慨無量でした。わが日本国は20年ほどの間にこのギャップをうめてしまいましたが、はたして中国の場合はどんなものでしょうか。10億をこえる人口をかかえ、政治体制もわが国とはまったく異るので、日本のようにはいかないかもしれません。それにしても、わが国の動物実験室はもはや整備されて以前とは隔世の感があり、われわれは現在、大いに恵まれた環境下にあることを自覚する必要があるようです。

注)
これは秋田大学医学部附属動物実験施設ーその誕生と十年の歩みーに(昭和62年)に掲載されたものです。

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