中米ホンジュラスヘの派遣を終えて:思いは千々に乱れて

〜JICA派遣で農業技術協カ(その1)〜
石井 公人

平成9年1月から11年10月までの約2年9ヶ月にわたり、中米ホンジュラスにて 国際協カ事業団(J1CA)に派遣され農業技術協カに携わってきた滞在記を以下に掲載します。海外での技術協カの一端と公私両面における悪戦苦闘 ぶりをかいつまんでご紹介します。



1.ホンジュラスってどんな国?

1)どこにあるの?

 アメリカ大陸は、北米と中米、南米に大別されますが、ホンジュラスは中米に属しています。中米は、日本ではほとんど具体的なイメージがわきませんが、関係国は7カ国で、北からグアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマとなっています。1990年前後には各国で内戦があったりして、国際的にも物騒な地域でしたが、今では多くの国で和平が成立しています。幸い、ホンジュラスでは表だった反政府運動や内戦がなく、1970年代後半以降日本からの援助が資金的あるいは人的に数多く行われてきています。

2)どんな国?

 北緯13度から16度に位置するホンジュラスは、面積が日本の約3分の1、人口が約600万人の小さな国です。経済的規模としては、1人当たりの国民総生産が約600ドルで、日本の約50分の1の規模になります。また、16世紀前半から19世紀前半まではスペインの植民地だったので、混血(スベイン系白人とインデイオ)が9割以上を占め、みんながスペイン語を話し、多くの人がキリスト教(カトリック)を信仰しています。

 観光資源としては、カリブ海に面している関係から、バイア諸島という3つの島々でリゾートやマリンスポーツが楽しめます。アメリカからは、12月から3月まで避寒のためやってくる観光客が多くいるようです。このほか、マヤ文明の最南限の遺跡として貴重な価値を有している「コパン 遺跡」があリ、ここも多くの観光客が訪れています。

 ホンジュラスに派遣されるという話を職場の上司から伺ったのが、平成7年の12月だったように記憶しています。最初にこの国の名前を聞いたとき、すぐに職場の地図を引っぱり出し、まずアフリカ大陸の中を捜しました。その後中南米を見て捜し出しましたが、その当時のホンジュラスに対する私のイメージはこんな程度でした。平成9年1月の出国まで、新聞紙上でホンジュラスの記事がないか気をつけていましたが、その間約1年全くそんなものは載らなかったはずです。ですから、出発前は、J1CAなどで3回にわたって約4ヶ月の研修を受けたとはいえ、家族連れ(妻と当時4歳の長女)だったこともあり、かなりの不安を抱えながらの渡航でした。もちろん、スベイン語の未熟さや生活習慣の違い、生活物資の質と量、子供の教育等々の問題が重なっての不安でした。ですが、今から振り返ってみますと、大部分は、右も左もわからない途上国に初めて赴任することに伴.う「杞憂」の面が多かったように思われます。

3)どうやって行くの?

 通常、アメリカ経由で行くのが最も一般的です。私たちが使った飛行機は、成田からアメリカ南部のダラスまで約12時間くらい、そこで乗リ換えてフロリダ半島のマイアミまで約2時間かかりました。そこで1泊して翌日2時間くらい飛行機に乗れば、ホンジュラスの首都テグシガルパに着きます。飛行場の周りが丘陵に囲まれており有視界飛行を強いられるため、約180度市街地の上を急旋回しながら着陸します。うまく着地すれば、乗客から拍手がおこることもたびたびです。

 着いてから戸惑うのが、時差です。日本とは15時間の時差があり、あちらがその分だけ遅れています。たとえば、日本時聞の夜中0時が、ホンジュラスでは前日の朝9時に当たります。ですから、着いてから10日くらいは時差ボケがぬけず、午後になれば眠くなり、真夜中に目が覚めて朝まで一睡もできなくなってしまいます。時差ボケが直れぱ、さあこれから本格的に動けるぞとはりきってしまいますが、その後に訪れるのが「日本ボケ」です。つまり、生まれてからこの方日本人として教育され生計を営んできた私の価値観・やり方が、あちらでは時として非常識・独リよがりになってしまうということです。詳しくは、以下で触れたいと思います。

2.ホンジュラスでの暮らしぶり

1)どこに住んでいたの?

 自宅は、首都から約80キロ離れたコマヤグア県コマヤグア市という、人口6万くらいの県都に住んでいました。近くにアメリカ軍の基地があり、諸外国の援助機関も入っていましたので、結構外国人も多くいました。一応県の中心都市ですから、病院や学校などの施設はありましたが、日本と比べれぱ、数十年前の日本の小都市と言った趣でした。でも、まあお金さえあれば携帯電話や衛星放送・有線テレビもあるし、そんなに不便という感じではありません。

 ただし、息抜きという点では、治安の問題もあり、街をぶらぶら散歩して気に入った店で買い物したりご飯を食べるというような、日本では晋通の暮らし方ができませんでした。誘拐・殺人などの凶悪犯罪はそんなに頻発するわけではありませんが、高校生ぐらいの若者が、グループで自転車を使ったひったくりをやるという手口が横行していました。実際、いっしょにいた海外青年協カ隊の女性が、未遂ではありましたが、その手口に遭遇しています。

 もう一つ、街を歩いていて気分が良くないのは、見ず知らずの人から用もないのに「チノ」ときつい口調で呼ばれたりなじられたりすることです。直訳すれば、中国人という意味になりますが、中米各国では日本、韓国、中国、台湾等の東アジア人を総称してこう呼ぴます。それはそれで仕方がないのですが、要はその呼ぴ方が気に障るのです。通リですれ違いざま、強い語調で発せられるものですから、こちらとしては、悪意とはいわないまでも、ある種の蔑視の意識が感じられ、決して快いものではあリません。2回ほどは、約1メートルくらいの至近距離から指さされ、まるで動物園の珍しい動物のように、連れに「見て、見て、チノよ、チノ」と言われたこともありました。周りの日本人からは、そのうち慣れると言われていましたが、その回数があまりに多かったので、ついに慣れることはあリませんでした。

2)家族は何をしていたの?

 私は、自宅から約5キロぐらい離れた職場に月曜日から金曜日まで通っていました。勤務時間は、朝8時から夕方4時までで、昼だけ家に帰って食事をとっていました。

 子供は、月曜から金曜まで、コマヤグア市にあるアメリカの援助で設立された幼稚園に通い、土曜日は首都にある日本語補習校に行っていました。コマヤグア市内には、うちの子以外日本人の子供がいなかったこと、住んでいたところがコロニアと呼ぱれる閉じた住宅地で基本的に住民以外入ってこなかったことから、最初はスペイン語が不自由だったものの、すぐに近くの子供たちと仲良くなり、言葉も見る見るうちに上達しました。あちらの子供たちは、好奇心が旺盛でものおじしないため、住み始めたらすぐに遊びに来てくれました。また、学校の子供たちとも親しくなり、そのうちの何人かとは家を行き来していました。反面、ドライな面もあって、自分の嫌いなことがあると帰ってしまったり、「チナ、チン・カン・チョン」(中国人、パンツもはかない)と椰楡されたりもしたようでしたが、時間がたてばまた元通り遊んでいました。結果的には、子供が一番早くホンジュラスになじみ、最後の方はほとんどホンジュラスの子供と同じような行動様式になっていたと思います。たぶん、うちの子にとっては、ホンジュラスの方が合っているのでしょう。我が強く他人から干渉されたり縛られたりするのが嫌いで、ほかの子に合わせて遊ぶことが苦手だったので、ホンジュラス人の個人主義あるいは身勝手な気質に合致したものと思います。私よりも2ヶ月半ほど早く帰国したので、今はもうスペイン語をほとんど忘れてしまったようです。もったいない気もしますが、一刻も早く日本のやり方に慣れなけれぱならないことを考えると、これもしょうがないかなと諦めています。

 一方、妻の方は、子供(学校生活)や私(仕事)のように必要に迫られなかったものですから、言葉の面では最初の頃だいぶ不自由を感じていたようです。が、後半は通常の生活、たとえぱ使用人とのコミュニケーションではあまり問題なく過ごせるようになりました。ただ、近くに日本人の婦人がいなかったことや日中いつも家の中だけでいなければならなかったことから、秋田での生活と比べ、かなりストレスがたまったのでないかと思います。彼女にとって、唯一の息抜きは、毎土曜日、子供の日本語補習校のため首都に行った際、そこで1週間分のまとめ買いをしたりウインドーショッピングをしたりすることだったようです。首都には、まあまあ物の豊富なスーパーやショッピングセンター、レストランがあり、コマヤグア市に比べれば格段の差があリます。本来、家族のケアは夫である私の責任なのですが、だらしないことに、慣れない仕事に気力を奪われるあまり、家族への気配りがおろそかになった面が否めません。日本にいるとき以上に家族の絆を大事にすべき状況にいたにもかかわらず、家族に大きな負担を与えてしまったことに内心忸怩たる思いがあります。この場を借リて、クリスチャンよろしく俄悔できればと考えています。

 滞在中、幸い大きな病気にはかかリませんでしたが、一つだけ妻と私が「デング熱」というのに襲われました。これは、1週間くらい高熱(39度以上)、食欲不振、関節の痛みなどが続くもので、蚊のような虫が菌を媒介しているようです。かかったときは風邪かなと思ったのですが、あまりに高い熱で立つのも億劫になったものですから、医者に行って血液検査をしてもらいました。診断の結果、「デング熱」という聞いたこともない病気だったので、最初は戸惑いましが、熱冷ましの薬を飲んで寝ているしかないということで、1週間何もせず関節の痛みに耐えながら静養していました。悪いことに、妻が直ってすぐ続いて私もかかってしまいました。でも、子供の方は大丈夫でした。こんなところにも、ホンジュラスヘの適応度合いの差が見て取れます。

3)ホンジュラス人ってどんな人たち?

 ”パンは今日のため、あしたは腹ぺこさ”ということわざを教えてくれた農家がいました。職場のスタッフの一人からは、「うちらには今日しかない、あしたも昨日もないんだ」という言葉を聞いたこともあります。つまり、起きてしまったことは反省してもどうしようもない、まだ.来ないあしたのことをあれこれ考えても意味がない、今だけ楽しくやれぱいいじゃないか、というような意味合いです。いい意味で言えぱ、個人主義で生活を楽しんでいることになリますし、逆から言えば、わがままで成り行き任せ、行き当たりばったりで予定が立たないということになってしまいます。具体例で少し説明しましよう。 例1

 家を大家に引き渡すとき修理を命じられ、大工に木のドアの修復を頼みました。一般的に完成期日にルーズなので、何回か修理状況をチェックしに行きました。何回目かのとき、どう考えても期日までに聞に合いそうにないので、その旨問いつめると、「機械が調子悪くて1週間何もできなかった」とか「難しい細工を別の人に頼もうとしたが、忙しくて断られたので時間が過ぎちゃった」とか、もっともらしい言い訳をならべます。そこで、「別の人」と言われた人に実際確認したところ、そんな話は全然聞いていないとのことでした。そんな具合で、行くたびにころころと嘘を変えながら言い訳ぱかりするものですから、「ほかに頼むからもういい」と言うと、その夜は半分徹夜してなんとか期日に間に合わせてきました。

 一般的に、期日が守られることはほとんどなく、というよりも期日を守るという感覚自体が非常に希薄です。ですから、時間を決めて何かをするということが非常に苦手です。たとえば、「何時に来る?」と何回聞いても、「午後行く」と答え、何時何分という約束は実際上意味を持ちません。パーテイを開いても、開始時間から約1時聞遅れで人がぽつぽつと集まってきて、終わるときも適当な時間に少しづつ人が消えていきます。日本的な「中締め」に慣れたこちらとしては、最初の頃、あまりのだらしない始まり方と終わり方にびっくりしたものです。

例2

 職場で作った報告書を60部製本するよう頼みました。ホッチキスで留め背表紙テープを貼ればおしまいなので、実質2日もあれば済んでしまう仕事です。でも、何回か電話で確かめてもなかなか終わったという返事がきません。約1ヶ月後、電話連絡が入ったので取りに行ったところ、段ボール箱に60部入れていました。念のため1冊1冊パラパラとめくりチェックしたら、底の方に入れられた10部くらいから折り返したべ一ジがとれてくるではありませんか!紙の両端をそろえるときに切ってしまったようです。その場にいた若い従業員に、「何だ、これは!」と気合いをかけると、「おれは知らない、後から別のが来るからそっちに言え」とにべもない返事。少し待っていると店の主人みたいなのが来たのでクレームをつけると、「ここのぺ一ジだけほかよりも出ていたので、揃えて切ったときに折り返しの部分もいっしょに切れてしまった」とのこと。「だったら、なんでその旨こっちに連絡しないんだ」と言ったら、スペイン語でベラベラ何やらまくし立てて言い訳。「どうして謝らないんだ。それがいやなら、どうしてセロハンテープを張るとかして直さなかったんだ?」とさらに問いつめると、「ここにテープはない、いやなら、その分金払わなくてもいいよ」を開き直り。"そんなら来る前に連絡しろ"と思いながら、「いいからテープ買ってきて貼り合わせろ」と言ってその場は帰ってきました。1ヶ月も待たされたあげく、こちらから出向いたらまともに仕上がっていず、謝りもせず開き直られておしまい。上のやり取りにあるように、自分のミスを攻められそうな場面では、「(自分が間違って)切ってしまった」とは言わず、「(紙が自ずから)切れてしまった」という言い方がよく使われます。自分が間違ったのではなく、事物が自然にそうなった、というわけです。

 一般的に、ホンジュラスでは、金銭がからむこと、買い物や依頼ごと、仕事の外注等では、明らかに相手側に非があっても、まず向こうから謝ってくることはありません。急に早口になって必死に弁解を繰り返すのが関の山です。もちろん、人通りの多いところで肌が擦れ合ったときとかには、すぐに「ごめんなさい」と言い合いますが、返金や弁償、違約金が関係する局面では、率先して非を認め謝るということは皆無と言っていいでしょう。

 以上の二つの例は、ネガテイブな面について記しましたが、私の価値観から言えば非常にルーズなやり方や身勝手な振る舞いに出会ったことが多々ありました。たぷん、「当たり」が良くなかったのでしょう。いっしょにいた日本人からは、「すぐ熱くなるからだよ。受け流したらいいじゃないか。」とか、「生半可言葉がわかるものだから、気がついちゃうんだよ。」とか言われました。自分としては、今さら性格を矯正することもできなかったものですから、どうしようもできませんでした。

 日本を出発する前は、日本の伝統的なおみやげや日本紹介の冊子なんかも準備して、ホンジュラス人とできるだけ交流を深めたいという期待を抱きながら渡航しました。そのため、その期待感が強かった分だけ、逆に、自分の思い通りに事が運ばなかったことに対し失望感も深かったということになリました。冷静に考えてみれば、照葉樹林文化に属する、ウエットな価値観を有するアジアと、個人及び家族をことのほか大事にし生活を楽天的に享受するラテンの国とは、基本的な価値観が180度異なるのは当たり前です。これが、いわゆる「異文化体験」というやつでしょう。日本での研修でもこの辺は講習を受けたのですが、聞くのと体験するのとでは大違い、というよく耳にすることをいやというほど突きつけられました。

 そのほかで気になったことは、非常に貧富の差が激しく、金持ちと貧乏人とが同じ国の人かと思うくらい異なった暮らし方をしているということです。お金さえあれば、御殿のような使用人付きの家に住み、ピカピカの外車を何台も所有し、高級店で舶来品を買い、きれいな洋服を身につけフランス料理を堪能できます。また、子供には高等教育をほどこし、アメリカに留学させて箔をつけることも可能です。

 一方、山あいに住む人たちは、現金収入の機会が乏しく、土塀の二間しかない小さな雨漏リのする家に住み、子沢山なため満足に教育を受けられず、1週聞に1回何時間もかけて近くの中心都市まで歩いて行って、安い店で本当に必要なものだけを買い、穴のあいたズボンをはきほとんど毎日トウモロコシから作ったトルテーヤという主食とインゲン豆をつぶしあんこ状にしたものに塩を混ぜただけの食事を食べています。もちろん、子供にも高等教育はおろか満足に小学校さえ卒業させてやることができない親も多くいます。そういうところの子供たちは、小さいときから山こ行って薪の切り出しや水くみ、はては都市の中心部の交差点や駐車場、大きいレストランで物乞いをしています。あまりの落差に愕然とするのは私だけでしょうか。

 ごく簡単な例を出しましょう。大学を出たての土木技師が、大した技術や知識がなくとも最低で毎月5〜6万円給料がもらえます。一方、家政婦は、いくら経験があってまじめに働いても、せいぜい1万円くらいがいいところです。いくら個人で努カしても、この差は開くことがあっても縮まることはないのです。悲しいくらいの「格差」が貧しい人たちの前に厳然と立ちはだかっています。未来に希望がもてない分、「俺たちに明日はない」みたいな生き方になるのも止むをえない気がしました。

中米ホンジュラスヘの派遣を終えて:思いは千々に乱れて(その2)