これは中川先生の講演を松田が見聞し,まとめたものです.演者の意図とは異なる部分があるかもしれま せんので,ご了承ください.

動物愛護の過去・現在・未来

ー動物の権利を考えるー


中川志郎(茨城県自然史博物館館長)

 先程から、いろいろな視点から、いろいろな論が展開されており、私も大変興味をもって聞いておりました。本日、私は「動物愛護という立場」あるいは「動物の権利というもの」を考えてみようと、大上段のテーマを掲げさせていただいたのですが、内容はそれ程大上段に振りかぶっているわけではありません。

 たまたま、私は獣医学を学んで、動物園という所に非常に長くおりました。約40年近く東京の上野動物園、多摩動物公園におりました。現在は自然史博物館におります。また、先程から何度か取り上げられております動管法という法律がありますが、それに定められている動物保護審議会のメンバーの一人です。実はこの審議会で、昨年から1年半程かけまして、1つの専門部会がもたれました。私はその座長を務めたのですが、そのテーマは「イヌによる咬傷をいかに予防するか」というものでした。動管法というのは「動物の保護及び管理に関する法律」ですから、動物の管理もあって、その管理の方は動物による被害をいかに防ぐかという部分です。これは後述する動管法の弱点といってもいいのですが、「動物の保護及び管理に関する法律」といって、「保護」をポンと前面に出しているのですが、皆さんご存じのように各都道府県で取られているいわゆる「ペット条例」といわれるものは、ほとんど「保護」のところが飛んでしまって、管理の所に大きな比重がかけられているというのが実体です。

 そういうところもありますが、一応、専門部会に「イヌがヒトを咬むということをいかに防止するか」というテーマを与えられました。人間が咬まれるということは咬む側の動物の方にも何らかの理由があるのではないかということで、そのことを専門部会で真剣に考えてみようということになりました。その中身を詳しく述べる時間はありませんので、私が感じたことを申し上げますと、どうやらペットとしてのイヌというものが人間に飼われてずっときていた。その中でヒトと動物の心のつながりというものが、確かにイヌと人間の間には1万年以上前からあったのです。今でもあるのですが、しかし、商業としての人間の経済活動の中で、商業的価値観みたいなものが、そういう心のつながりとしてのペットの上にのっかって、それが非常に大きな働きをしているのです。たとえば、こういうことです。ペットが何故咬むのか。イヌが何故咬むのかということを調べていったときに、問題行動を起こすイヌが非常に多くなってきたという指摘がなされました。その専門部会で動物行動学をやっている方、消費者センターの方、あるいは動物業者の方をお呼びして、ヒアリングをしました。消費者センターの方が発表されたのを聞いたとき、愕然としました。今、ペットの本当に小さい1カ月未満くらいのものを、一番可愛い時期のものを写真に撮って、それをカタログに載せて販売をしています。

 動物の中で親と子の絆を結ぶ最も重要な時期、兄弟同士がじゃれあって社会化していく重要な時期、ヒトと混じりあってヒトと結びつきを作る重要な時期に、ペットの子供達はそういう環境から離されて、「消費者の皆さんにカタログで美しく可愛い感じで撮って配らないとねー」というようなことがある。これにはブリーダーの問題や販売店の問題などいろいろあると思います。しかし、今の商業の中で、それが流通している中では、いいとか悪いとかいう問題は軽々に申し上げることは出来ません。しかし、商業的な価値というものの方が、その動物の社会化という価値よりも先に行っているのは事実です。そういうイヌがある家庭に飼われて、言うことをきかない、社会化が出来ないといった場合に、結果は2つしかありません。1つは人様に頼って矯正するか、あるいはもう関係ないといって捨ててしまうか。

 そういう結論を得て、これはいったいどうすればよいのか?皆で考えました。その結果、本当に私達と一緒にいるペットとは何なんだということをある意味で国民的な総意といいますか、皆で考えていかなければならない。「日本には子供のうちから、動物達がどういう立場で今私達と一緒にいるかということを教育する機会がないのではないか」、「私達と一緒にこの世界に棲んでいる動物とは何なんだと考える場が、家庭の中にはないのではないか」という結論に達しました。

 冒頭のこの学会の主旨の中にも「今私達が扱っている動物は物であって、生き物ではない」という話しがありました。まさに、カタログ販売は物の論理です。そういう状況の中で、動物達と本当に心の友としての絆ができるか、絆ができない動物がある瞬間に人をかじる。その場合、動物に罪をきせるということだけでいいのだろうか。何でこんなことになったのだろう。そういうもっと根元に立ち戻った考え方をしてみようということになりました。

 動物というものはヒトとの関わりで見てみると、大きく2つのグループに分かれるような気がします。1つのグループは人間とともに人間の生態系の中で生きている動物達、もう1つのグループは人間の生態系から離れて、自然の生態系の中で生きている動物達です。人間生態系といわれるような人間を中心とした生態系の中で生きている動物にはペット、産業動物、そして動物園動物があります。それと離れた所に野生動物といわれる自然生態系の中の動物があります。では人間生態系の中で、私達が直接に接している動物は何処から来たのでしょうか。

 ずっと考えていくと私達が1万年前、食料採集段階の後、作物というものを植物の中から取り出し、家畜というものを野生動物の中から取り出し、それをヒトの生態系の中に拉致してきて、そこで人間に最も都合のいいような作物に仕上げ、家畜に仕上げてきた。

 動物育種学者の先生の著書の中に「人間が作った動物達」という本があります。動物や植物は人間が創れません。だけど家畜や作物は神が創った(?)、動物種が、あるいは進化が作ったそのままのものではないのです。

 人間が自然生態系から離脱して人間中心の世界を作ってわずかに1万年ですが、その間にイヌにはどのくらいの品種ができたのでしょうか。ブタには、ウシにはどのくらいの品種ができたのでしょうか。まさに人間が作った動物。そういうものと私達は一緒に暮らしてきた。ウシで5,000〜8,000年、ヒツジで1万年ぐらいの長い時間を彼らと一緒に生活してきた。嘗てノアの箱船に動物達が乗って人間と一緒に生き延びたという話がありますが、人間生態系の中に人間が一緒に乗ってもらった動物達には、私達がある意味でその存在そのものについて責を負わなければならないと思うのです。

 野生から人間の作っているシステムの中に入ってきた動物が人間のためだけにある時代は終わったと思います。人間が人間の住みやすいこの環境の中に動物達を連れてきたのですから、その動物達も住み易い、生きられる、生活のできる環境を与えることが、私達には責務として課されているのだろうというふうに私は思うのです。その観点に立って見る限り、今の法整備、都市機能、家屋構造はこのままでいいのでしょうか。ヒトと動物が一緒に住むために公園はこうあるべきだ、住宅はこうあるべきだ、学校はこうあるべきだという発想が、今の私達のどこにあるのでしょうか。

 私達は一生懸命子供達の生活を考え、老人の生活を考え、権利を考えています。しかし、それと同じレベルで自然生態系の中から私達の人間生態系の中に引っぱり込んできた動物達に対しても考える責任はあるはずだと思うのです。

 私の専門としてきた動物園学にも人間のために野生動物を展示する、珍しい動物を見せるということは確かにありました。でも、それだけの時代はとっくに終わり、今は Environmental enrichment が求められています。動物達が野生の状態と同じように心理的にも物理的にも生きられるということを追求しない動物施設はダメになりつつあります。それは誰かに怒られるとか、誰かに指摘されるとかいう問題ではなく、ヒトが動物と一緒に生きる基盤として、それが必要なんだという。そういう考え方が出てきていると思うのです。

 いろいろな意味で、今の日本の動物に対する基本的な考え方はこの程度だという話もありました。でも日本のとかヨーロッパのとかいうレベルではなく、ヒト対動物、今の動物達にとって私達は何なのかといった観点で考えてみる必要があると思うのです。

 そういう意味で、今の私達がやらなければならないことは何なのでしょう。確かに法の整備も重要です。でも、それだけでいいのでしょうか。

 私がロンドン動物学協会にしばらくいましたときに、当時ロンドン動物園のほ乳類部長のデズモンド・モリスという男と一時一緒におりました。彼はケンバーレンやローレンツの弟子とされていますが、「動物との契約( The Animal Contract)」という本を書いています。その本の中で、彼は「私達は動物にもう一度新しい契約をし直さなければならない」と言っています。そして「私達が動物と一緒に暮らすのであれば、これだけは守ろうよ」という十箇条をあげています。これを「動物の権利の章典」というのですが、最後にこれを紹介して私の責を果たしたいと思います。

動物の権利の章典

第一条いかなる動物も、 われわれの迷信や宗教的偏見を満たすために、善ないしは悪という想像上の資質を賦与されるべきではない。
第二条いかなる動物も、われわれを楽しませるために支配されたり卑しめられたりすべきではない。
第三条いかなる動物も、適正な物理的及び社会的環境が提供されない場合は、飼育下に置かれるべきではない。
第四条いかなる動物も、人間の飼い主の生活様式にたやすく適応できない場合は、コンパニオンとして飼育されるべきではない。
第五条いかなる動物種も、直接的な虐待ないしは人間の人口のさらなる増加によって絶滅に追いやられるべきではない。
第六条いかなる動物も、われわれにスポーツを提供するために苦痛を被らされるべきではない。
第七条いかなる動物も、不必要な実験目的のために肉体的ないしは精神的苦痛にさらされるべきではない。
第八条いかなる家畜も、われわれに食料ないしは産物を提供するために、剥奪された環境下で飼育されるべきではない。
第九条いかなる動物も、毛皮、皮革、牙あるいはそれ以外の贅沢品を取るために搾取されるべきではない。
第十条いかなる使役動物も、ストレスないしは苦痛の原因となるような重労働を強いられるべきではない。

 これは巷間に言われる動物の権利(Animal Right)とは違います。これは人間と動物が共存していく上で、そのベースとなる基本的考え方を具体的に示しているのだろうと思います。これら全てがパーフェクトにすぐに実行できる、あるいは全てが大賛成とはいかない部分もあります。しかし、基本的な考え方として、彼自身動物園におり、彼自身動物行動学を研究し、彼自身が動物について考えた結果としての提言と、私は受けとめます。

 これはある部分でこれから発足しようとしているペット法学会の方向を指し示しているのではないかと考えます。


ペット法学会シンポジュウムより
 文責 秋田大学医学部 松田幸久