学術の動向 1997.8 対外報告

たまには動物のことも考えてみてください

 昔も今も、人間は動物無しには生きられない。これからも多分、動物を食べ続け、皮製品を身につけることをやめないであろう。生き物が自ら生きる為に他の生き物を犠牲にすることは生き物の本性と思われ、この原理は未来永劫変わらないであろう。ヒトは約200万年前にアフリカで発生したといわれるが、長い間その数に於ても質においても低迷を続けていた。ホモハビリスではあってもホモサピエンスにはなかなかなれなかったのである。時が経てヒトは賢いヒト、すなわち、ホモサピエンスサピエンス、になり、人口も爆発的に増えはじめた。今から約1万年前のことである。それ以来今日までに人口は約1000倍に増加した。人口の急速な増大は言うまでもなく牧畜と農作のおかげである。知恵のある人間が、食するために動物を飼育し、穀物を栽培する方法を考えて十分な食糧を供給したため、人口の急速な増加がもたらされたのである。

 動物を食することでは西欧と、日本を含む東南アジアとはかなり事情を異にする。キリスト教は人間が地上の生ける物をすべて支配し、食し得るものは悉く食してよいとしている。
  キリスト教発祥の地であるイスラエルほどではないにしても、ヨーロッパでは主な穀物である小麦の生産量は東南アジアの米作に比べるとその栽培効率ははるかに低く、牧草にしかならない野草で飼育した動物を食さなければ増え続ける人口を維持することが出来ない。一方、東南アジアは気候が温暖なため、食用としての植物資源は豊富で、若干の魚類で補えばとくに牧畜をしなくても食糧に不足することは無かったと思われる。とくにわが国で陸上の動物をさかんに食するようになったのは明治以降で、西欧の模倣である。むしろ、“生類憐れみの令”などで象徴されるように、動物を食するには大きな抵抗があったと思われる。仏教も、また局地的な素朴な宗教も、キリスト教と違って多神教が多く、そのような宗教を信ずる人々の間では動物はおろか、植物や、さらに、山岳信仰などに見られるように、様々な物に霊の存在を認める風習がある。このような背景のもとに自然科学が発達し、とくに医学生物学の研究に多くの動物が用いられ、なかにはかなり無神経に動物を実験に用いた例も知られるようになった。

今世紀半ばになって漸く反省の気運が生まれ、感性的にも理論的にも動物実験の是非を問う議論が盛んになってきた。理論的な支えを与えたのはオーストラリアの哲学者、ピーターシンガーといわれ、彼の著書“動物の解放”は“動物の権利”を認める運動を巻き起こしたといわれる。動物愛護団体に拠る“動物の権利”運動家は、日頃の動静は目立たないが、ひとたび動物虐待のニュースをキャッチすると、活発な運動を繰り広げ、時には過激な行動をとることもあるといわれる。

 “動物の権利”を認めようとする考えの根底はもはや宗教とはかかわりが無く、専ら哲学的であるといわれる。極く大ざっぱに言えば、ヒトと動物の間には画然とした差が無く、ヒトから種々の動物へと連続的に変化していると考えているようである。同じく生命を持つ植物はどのように位置づけられているかは不明であるが、“動物の権利”運動家やこれを支える哲学者は大体において菜食主義者といわれる。 しかし、それで免罪されるのだろうか。食用になる穀物や野菜、さらには木の実などを食すると思われるが、これらの植物はどのように栽培し、あるいは採取するのだろうか。
  虫(害虫)や鳥、獣などをどのようにして排除するのだろうか。これらの、われわれにとって有害と見なされる動物は、殺戮しないまでも菜食は彼らの食物を奪ってしまうことは間違い無い。動物の犠牲無しの菜食主義は不可能に近い。仮に運よく一切動物を犠牲にすること無しに食用になる植物を入手し得たとしても、“植物もまた生き物である”とすれば、ヒトは結局他の生き物を犠牲にすること無しには生存し得ないのである。

 物事はあまり極端に考えるのはよくない。牛肉を食した口で動物愛護を叫ぶことも許されよう。動物を食し、また実験にも用いる際には常に感謝と懺悔の気持を持つことが大切である。そのような基調でまとめたのが“対外報告”である。

 山科郁男(やましないくお1926年生)
日本学術会議第16期第7部会員、生命科学の進展と社会的合意の形成特別委員会委員長、生化学研究連絡委員会委員長、京都大学名誉教授、理学博士、専門:生化学

教育・研究における動物の取り扱い