学術の動向 1997.8 対外報告

教育・研究における動物の取り扱い

一倫理的及び実務的問題点と提言一

生命科学の進展と社会的合意の形成特別委員会

 この報告は、第16期生命科学の進展と社会的合意の形成特別委員会の審議結果を取りまとめて発表するものである。

I.動物の取扱を取り巻く諸情勢

 地球上に出現した当時は動物と平等な立場で共生していた人類は、その後知性によって文明を発展させ、人口は飛躍的に増加し、今日の繁栄を見るに至った。この人類繁栄の陰で、衣食住全般にわたって、さまざまな形で動物に犠牲を強いてきたことは否定できない。人類は今や動物はもとより、地上の様々な生き物との共生を真剣に考慮すべき時である。それは文明を発展させ繁栄してきた人類に対する、文明からの要求であるといえる。

 すでに、欧米諸国では動物保護立法がなされ、たとえば、スイスでは憲法に動物保護に関する規定を掲げるまでになっている。今や動物との共生のあり方についての議論は動物保護から動物愛護、動物福祉へと展開され、さらには、動物に権利を認める立場すら現れている。
   それに伴って、国際社会では、現実に実施されている動物実験に対する批判が急速に高まっており、わが国もまたその例外ではあり得ない。

 人間はその本性として、身近に接した動物に愛情を覚え、動物を犠牲にすることに心の痛みを感ずる。しかし、愛情の深さや心の痛みの程度は、個人の成長過程における個人 的体験や受けた教育によって大きく左右される。野生の動物はもとより特定のペットを除けば飼育される動物とも直接に接する機会が極端に減少してしまったわが国においては、動物愛護や生命尊重という倫理性がしっかりと身につかないまま成人する人が少なからずいることが危倶される。それゆえ、わずかとはいえ、必要以上に動物を実験に供したり、その取り扱いに適切な配慮を欠く研究者がいたり、また、今後そのような人々が増える可能性があるとすれば、たとえそれが稀なケースであっても、われわれとしてはそれを不問に付することはできない。


 一方、人類の生存と健康維持に直接係わる生命科学の分野では、国際的な協力の下に、今なお、各種の動物を用いた研究が遂行されており、その状況は、今後も基本的には変わらないものと考えられる。したがって、動物愛護、動物福祉、さらには動物権利を強調するあまり、必要な科学的研究の遂行に支障をきたすことがあってはならない。本委員会は、動物実験の意義について社会的理解を得るとともに、実験従事者に対しては、国際的にも許容される態度で実験動物に接することを要請するため、以下の見解をまとめた。

II.動物実験の必要性

 医学生物学の今日の進歩に動物実験の果たした役割は大きく、今後も人間の病因の究明、医薬、農薬の創薬研究、さらには獣医学における動物自体の疾病の治療のための研究に動物を用いることは避けられない。以下に述べるように、人間の重要な疾病ならびに動物自体の疾病の研究には動物実験は不可欠である。

    現在、人間の死因の第1位は癌である。ラット、マウス、イヌなどに実験的に癌を発生させ、その状況を分析、観察することにより、発癌機構の解明、発癌物質の同定、抗癌剤の開発などを行うことは今日でも癌の予防、治療のための有力な方法である。癌の摘出手術、放射線照射、温熱などによる治療もまた、動物を用いた実験によりはじめて有効性が確認され、それらの技法の人間への適用が可能になる。

 多くの癌細胞は培養系に移されて継代・維持されており、抗癌剤の検定や有効濃度の決定に利用されている。しかし、細胞は生体内では多くの生理活性物質の影響を受けつつ組織あるいは器官としての“系”を形成している。したがって、培養細胞について得られた結果を直ちに生体そのものに適用するには限界がある。


 死因のそれぞれ第2位、第3位である脳血管疾患と心疾患の発生機序の研究においては、高血圧症マウス、高脂血症ウサギなどの疾患モデル動物が開発されて広く利用されている。早期診断法の確立、有効な薬剤の開発、食品中の予防因子の探索などに、これらのモデル動物を含めて今後とも多くの動物を実験に供することが必要である。これらの研究においても、培養細胞を用いての研究だけでは不十分であり、動物実験によってはじめて全体像を見ることができる。

 ワクチンや抗生物質を用いることによって多くの感染症が克服された。しかし、エイズや成人T細胞白血病などの新たなウイルス感染症が蔓延する一方、ウイルス肝炎、マラリアなどはなお克服されていない。しかも、これらの病原体の中には変異体が絶えず出現するものもあり、治療に有効なワクチンや抗生物質の開発には今後もなお多くの動物実験が不可欠である。臓器移植についても移植技術の向上、摘出臓器の保存条件の検討、拒絶反応の抑制などについて動物を用いた研究は欠かせない。
    難病および遺伝性疾患についても病因(責任)遺伝子の特定やその作用のメカニズムの研究が精力的に進められており、次第に治療可能になると考えられているが、そのためにも動物モデルを用いた病因の研究や治療法の探索が必要であることは言うまでもない。さらに最近では、遺伝子導入動物の有用性が高く評価され、その利用が著しく増加している。

 開発された薬剤が有害な副作用を示すこともある。睡眠薬であるサリドマイド、整腸剤として開発されたキノホルムなどは副作用を示した顕著な例である。しかし、もし必要にして十分な動物実験を行っていれば、これらの悲惨な薬害はいずれも防ぐことが出来たと思われる。医の倫理を謳ったヘルシンキ宣言(1964年公表,1975年改訂)がその基本原則の第一に、「動物実験を含めた科学的研究に基づいて臨床研究を行う」と掲げていることも十分に考慮する必要があろう。


 医学・薬学はもとより生命科学分野における動物を用いた研究実験は広い分野にわたって行われており、21世紀に向かってさらに大きく発展することが予想される。とくに、行動科学および脳科学の分野では、高度に発達した脳機能が研究対象であり、動物実験反対の最もはげしい対象となっている霊長類すら必須の動物と言われている。また、環境科学においても人体に影響を及ぼすと考えられる諸因子についての研究に動物を用いた実験が不可欠である。

 動物と人間との違いを強調して動物実験の意味を否定しようとするのは当たらない。マウスですら遺伝子レベルでは人間に類似しており、チンパンジーに至ってはその類似性は98%に達するといわれている。動物のそれぞれに特性はあるとしても、種を超えて共通する部分が極めて多い点に目を向けなければならない。動物実験は医療を通じて人間の健康を保持し、その基礎となる科学的原理を探究するための一つの方法論であり、他種生物の利用の一つの形態にすぎない。
   したがって、動物実験は人類がその生存のために他種生物を衣食に利用することと基本的に異なるものではない。

III.動物実験における倫理性

 人間と動物の生命の重みを比較するとき、多くの生命科学研究者、とくに医学者は迷わずに人間を優先させるであろう。しかし、たとえ人間の健康維持のためであっても、他の動物種を無制限に利用してよいはずはない。動物実験について個別に吟味した場合、現在はともかく、近い将来に実験が終結したり、代替法が見出されたり、さらには実験がその意味を失う場合もあるであろう。少なくとも、実験に供する動物の数を減らし、代替法を見出す努力を怠らず、しかも、やむを得ず使用する場合には動物に苦痛を与えぬよう絶えず心がけるのは当然である。用いられる動物としては脊椎動物、とりわけ哺乳動物が主であることから、適正に整えられた環境のもとで、計画的に生産・飼育された動物を実験に供することを原則とすべきものと考える。


IV.動物実験遂行上の問題点と提言

 生命科学研究の遂行に動物実験が不可欠であるとしても、その取り扱いについては、研究者およびこれを支援する関係機関は協カして万全を期する必要がある。日本学術会議はすでに1980年「動物実験ガイドラインの策定について」勧告した。これに基づいて1987年、文部省は「大学等における動物実験について(通知)」を定めて全国の大学等に送付し、さらに、日本霊長類学会、日本実験動物学会、日本生理学会などもそれぞれ動物実験に関する指針を制定している。指針に盛り込まれている内容を遵守して、動物取り扱いの実務にそれを確実に反映させるには、なお以下の方策が必要であろう。

(1)生命倫理教育の拡充

 生きた動物を利用した理科教育が減少し、動物との共同生活を営む機会にも恵まれない児童・生徒に対して、動物愛護、生命尊重という思いやり豊かな感性をはぐくむことは、極めて困難な情勢になっている。
   初等中等教育においては、生活科、理科、社会科などの教科および道徳や特別活動等の枠組の中で、機会ある毎に新しい生命倫理教育を行うことが不可欠である。

 生物学・医学の教育・研究に携わる大学等においては、生命倫理教育の一環として動物実験倫理の教育を行うことを義務づける必要がある。その際、実験に動物を用いることの必要性とその意義、動物に接する態度、実験中及び実験終了後の動物の処理についての注意などについて講述することが望まれる。これに関連して、将来に向けて生命倫理教育の担当者を養成することも必要である。

(2)動物実験委員会の強化

 1987年、文部省から全国の大学等に送られた指針「大学等における動物実験について(通知)」に応じてつくられた「動物実験委員会」はその組織、運営においてすでに相当な実績を上げてはいるが、なお、いくつかの点について改正を行って委員会を一層強化する必要があると思われる。委員会の構成、任務、権限について以下のように提言したい。


構成:委員会には、動物実験を行う部局のほか、動物実験を行わない部局(主に人文社会系)からも相当数の委員を参加させて、幅広い意見を求めるとともに大学(機関)全体の動物実験の適正な遂行に責任を持つ組織とする。

任務:動物実験を行うには、先ず、実験の目的と必要性、使用する動物の種類と数、使用する方法、とくに、実験動物が被ると予測される苦痛の程度とその軽減方法、使用後の処置等を明記した計画書について、委員会の審査を徹底させる。その結果を科研費の申請に反映させることも考えられる。また、動物実験の妥当性と必要性に関する広報活動も重要な任務である。

権限:動物実験を行う施設を査察し、実験計画を審査するとともに、必要に応じて実験の遂行状況を調査し、妥当性を欠く実験に対しては中止を含めた改善処置を指示することができる。多くの生物・医学系の学術雑誌への投稿に際しては実験動物の倫理的取り扱いが行われた旨を記載することが求められているが、必要に応じて証明書を発行するなどの対応をする。

   (3)実験動物施設の整備

 倫理性にも配慮した適切な動物実験を進めるためには、動物実験の飼育管理に必要な施設、およびその運営に要する人員、設備、事業費等についてなお一層の配慮をする必要がある。近年、ヒト疾患および生命機能研究のモデルとしての利用が著しく増大している遺伝子導入動物についても同様な措置が必要である。また、脳科学の今後の発展を支える霊長類については、研究遂行に支障を来さぬよう計画的に確保する方策を講ずべきである。

V.まとめ

 以上、本委員会は、長期間の討議を経て、現段階においては、対象とする動物の生命を尊重しつつ国際的に許容される限度内で行われる動物実験は正当なものであるという結論に達した。国際的にも、1996年7月、ICSU(国際学術連合)が同じ主旨の「研究および教育における動物使用方針に関する声明」を発表している。本委員会のまとめた見解と提言が、動物実験の必要性についての社会的合意の形成と研究者自身の倫理性の高揚に役立つことを期待するものである。

たまには動物のことも考えてみてください