★ 佐々木 仁倫(ささき よしみち)
当時の勤務先 秋田大学医学部実習機器センター
派遣された国 1)エクアドル、2)パラグアイ、3)ザンビア
派遣された年月 1)1979年、2)1991年、3)2001年、2002年
任務内容 医療機器整備、電子顕微鏡整備調整技術指導
病床にある佐々木仁倫君の回復を願って
所澤 剛
 佐々木仁倫君は昨年8月急に病を得て倒れ、今も病床に伏したままです。同君は秋田大学医学部実習機器センターに 電子顕微鏡技師として長年勤務しており、その間昭和54年(1979)エクアドルに電子顕微鏡の技術指導で長期派遣され、その後パラグアイ(1991)、 ザンビア(2001、2002)にも医療機器整備、電子顕微鏡整備調整技術を指導すること等で短期間派遣され、計4回のJICA派遣業務に従事した経験豊富な 専門家であった。国内にあっては平成5年JICA帰国専門家秋田県連絡会の発足とともにこれに参加し、故三浦昌司氏、宮原萬芳氏と共に幹事に選出され、 会計を担当することになり、病に倒れるまで毎年JICA東北支部への事業費申請、会計報告等の業務を行うと共に秋田県連絡会の年次総会開催、会報発行の 業務を担当していた。平成13年連絡会総会で宮原萬芳氏が代表幹事を辞任されその後任に推挙された私は佐々木仁倫君に助けられ2人3脚で本連絡会を 運営してきた。平成15年度の計画としてJICA帰国専門家秋田県連絡会会誌発行を目指し9月より作業を開始する予定でいた直前病に倒れてしまい大変 残念でたまらなかつた。

 私は平成3年(1991)パラグアイでシャガス病等寄生虫症プロジェクトのリーダーとして本プロジェクト発足以前にアスンシオン 大学保健科学研究所に日本政府から寄贈され、その後殆どフォロウされてこなかった電子顕微鏡の調整、技術指導を佐々木仁倫君に協力してもらいたいと要請 したところ結婚間もない時期であるにもかかわらず快諾してもらいJICAから専門家として派遣され、同年末から正月を挟んで真夏の暑い2ヶ月滞在してもらった。 彼は植物に興味を持っており、滞在中我が家を訪れ同じ趣味を持つ家内とパラグアイの植物などの話をしていた。私が帰国専門家秋田県支部の幹事に勤めるよう になってから彼は事務連絡で我が家に来るとまた秋田で育つハーブのことなどで話が弾んでいた。彼は愛妻家で子煩悩でパラグアイから帰国する際パラグアイ特有の 楽器アルパを奥様に土産として持って帰ったし、ザンビアに派遣されると毎週のように便りを出していた。また秋田にいる時は家族サービスに精を出していたようである。 佐々木君の病からの回復は遅々として進まないが早く家族と共に過ごせるようになる時期が来ることを心から願っています。

★ 石井 公人(いしい きみひと)
当時の勤務先 農用地整備公団(JALD)
プロジェクト名 かんがい排水技術開発計画
派遣された国 ホンジュラス(中米)
生活した都市 コマヤグア県コマヤグア市
派遣された年月 1997年1月〜1999年9月
任務内容 水利構造物の調査・設計マニュアルの策定及びモデル工事の実施
任地の概要など
 アメリカ大陸は、北米と中米、南米に大別されますが、ホンジュラスは中米に属しています。中米は、日本ではほとんど具体的なイメージがわきませんが、 関係国は7カ国で、北からグアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマとなっています。1990年前後には各国で内戦があったりして 、国際的にも物騒な地域でしたが、今では多くの国で和平が成立しています。幸い、ホンジュラスでは表だった反政府運動や内戦がなく、1970年代後半以降日本からの援助が資金的 あるいは人的に数多く行われてきています。
 北緯13度から16度に位置するホンジュラスは、面積が日本の約3分の1、人口が約600万人の小さな国です。経済的規模としては、 1人当たりの国民総生産が約600ドルで、日本の約50分の1の規模になります。また、16世紀前半から19世紀前半まではスペインの植民地だったので、混血(スペイン系白人と インデイオ)が9割以上を占め、みんながスペイン語を話し、多くの人がキリスト教(カトリック)を信仰しています。
 観光資源としては、カリブ海に面している関係から、バイア諸島という3つの島々でリゾートやマリンスポーツが楽しめます。 アメリカからは、12月から3月まで避寒のためやってくる観光客が多くいるようです。このほか、マヤ文明の最南限の遺跡として貴重な価値を有している「コパン遺跡」があリ、 ここも多くの観光客が訪れています。
 自宅は、首都から約80キロ離れたコマヤグア県コマヤグア市という、人口6万くらいの県都に住んでいました。 近くにアメリカ軍の基地があり、諸外国の援助機関も入っていましたので、結構外国人も多くいました。一応県の中心都市ですから、病院や学校などの施設はありましたが、 日本と比べれば、数十年前の日本の小都市と言った趣でした。でも、まあお金さえあれば携帯電話や衛星放送・有線テレビもあるし、そんなに不便という感じではありません。
 ただし、息抜きという点では、治安の問題もあり、街をぶらぶら散歩して気に入った店で買い物をしたりご飯を食べるというような、 日本では普通の暮らし方ができませんでした。

★ 伊藤 勝雄(いとう かつお)
当時の勤務先 農用地整備公団(JALD)
プロジェクト名 ピラール南部地域農村開発計画
派遣された国 パラグアイ国(南米)
生活した都市 ピラール市
派遣された年月 1994年7月2日〜1999年6月30日
任務内容 施工(排水路掘削等及び関係道路の改修)
任地の概要など
 ピラール南部地域は、西にパラグアイ河、南にパラナ河を控えた低平湿原地帯であり、主として大規模牧場の土地利用の間に自給作物と綿花を栽培し、 小農場が点在する排水不良の地域です。首都のアスンシオンからピラール市まで道路距離(国道1号線)約370km。370kmの内未舗装約150km(当時、現在は全舗装)。ピラール市:パラグアイ国ニエンブック県の県庁所在地。人口は約25,000人。

★ 伊藤 成寿(いとう しげひさ)
当時の勤務先 (株)ジャスト(旧 日本超音波試験(株))
プロジェクト名 地震防災プロジェクト<
派遣された国 メキシコ合衆国
生活した都市 メキシコ市
派遣された年月 1996年11月〜12月
任務内容 ガス圧接技術移転に係わる技術指導
任地の概要など
 海抜2,200メートルの、かっての火口原に築かれた都市テノチティトラン(アステカ王国首府)をスペイン人が滅ぼし、築き直した町で、 古い歴史と重層的な文化構造を持った都市。

★ 伊藤 驍(いとう たけし)
当時の勤務先 国立秋田高専
プロジェクト名 ICIMODにおける日本の協力体制検討
派遣された国 ネパール王国
生活した都市 カトマンズ
派遣された年月 1996年7月〜10月
任務内容 ヒマラヤ地方の山地崩壊の実態調査並びに日本人研究者の派遣の是非について
任地の概要など
 ネパール王国はインドと中国に取り囲まれた日本の1/3程度のヒマラヤ山麓にある。首都カトマンズ(亜熱帯気候、標高1,300m)には中立国で あるため国際機関が多数ある。滞在先のICIMOD(山岳地域開発国際センター)はユネスコに所属し、山岳地域低開発国の技術者養成、科学技術の普及を目的に10数カ国の 科学者が滞在していた。

 我々3人(大学教官2人と私がチームリーダー)は日本人として初めてここに派遣された。山地崩壊や自然災害に関わる資料の研究・現地調査 を行い、ここで日本人研究者がその防止・管理に如何に協力できるかプロポーサルを行うことが主な目的であった。滞在中に記録的な集中豪雨が来襲し、国道、河川、 山岳道路等ライフラインはズタズタに切断され、経済危機に陥った。被害甚大箇所数カ所 についてJICA、DPTCと共に現地調査を行い、その実情とこの国の自然災害に対する施策や研究レベル等をまとめた調査報告書(英文100頁)を外務省に提出した。 自然災害は人災とも言えるものでこの地方の経済発展を著しく疲弊させている。この報告書は世界各国にニュズレターとして流された。帰国後調査内容はいろいろな 学会で研究論文としてまとめ発表した。

 ネパールは現在もそうであるが政治不安が大きく、外務省からたびたび外出注意令が発せられた。国民の大半がヒンズー教徒で盛り場は ほとんど無く夜は静かである。しかも環境は汚染され、特に飲み水や食べ物に神経を使った。国民は穏やかな性格であり、日本には極めて友好的であった。

★ 木村 久和(きむら ひさかず)
当時の勤務先 JA秋田ふるさと審議委員
プロジェクト名 枝豆栽培指導
派遣された国 ウルグアイ東方共和国
生活した都市 ベジャウニオン
派遣された年月 1998年10月より2年間
任務内容 首都から625kmの地方都市ベジャウニオン市北部農協で枝豆栽培試験と農家巡回指導
任地の概要など
 国の位地は南米大陸のブラジルとアルゼンチンの間の小さな国。面積は17万7,508平方キロで日本の約半分。温暖気候で生活は快適である (年間雨量は1,000ミリ程度)。人口334万人でスペイン、イタリア系が88%の多民族国家で公用語はスペイン語である。宗教はカトリック教徒が主体で争いが無く治安も良い。 主な輸出品は牛肉、羊毛、木材であるが稲作にも適した気候風土で驚いた事に「あきたこまち」が栽培されていてブラジル日系社会に輸出が増えている。

 私が勤務したウルグアイ北部農業協同組合は秋田農協中央会(JA秋田)と同じ組織で受け入れ体制も良く、カウンターパートのダニエルの 協力もあり2年間何のトラブルもなく仕事ができ、心から感謝している。

追記

 国際協力の出発点は昭和37年(1962年)インド農業技術センター(オリッサ州サンバルプール農場)に日本稲作指導に派遣され3年間妻と 子どもと共に過ごした感動の異文化体験がスタートです。

★ 佐々木 久尚(ささき ひさなお)
当時の勤務先 秋田工業高等学校教諭
プロジェクト名 リヤド電子技術学院設立
派遣された国 サウディ・アラビア王国
生活した都市 リヤド市(首都)
派遣された年月 1991年12月(湾岸戦争終了後)〜1992年1月
任務内容 「日本式教育をやってほしい」と工業高校設立の要望があり、化学の責任者としてカリキュラム、実験実習項目等についての指導<
任地の概要など
 サウディ・アラビア王国はアラビア半島の80%を占める広大な国土で、ほとんどが砂漠で川はない。首都のリヤド市は内陸部にあり、 夏は45℃を超えるが、夜は20℃と過ごしやすいが、冬は0℃以下になることもある。世界最大の原油産国である。
 サウディ・アラビア王国はイスラム教の始祖ムハンマドの生誕地である。マッカ、メジナというイスラム教2大聖地を抱え、 厳格なクルアーンの戒律を今もかたくなに守っており、アラブ諸国の中でも最も忠実にイスラム教の教えを守っている。

 国王のファハド・ビン・アブドゥル・アジズは立法・司法・行政を司ると同時に、宗教上のイマーム(最高指導者)である。 憲法はなく、国の法はクルアーンと預言者の言行録(ハディース)で規定されている。禁止事項は、アルコールの禁止のほか、豚肉、集会、女性の水着写真などが禁止である。 外出するときの女性は、頭から足先まですっぽりとアバヤ(黒いマント)で包まなければならない。でも日常生活はイスラムの決まりを守っていれば暮らしやすい。 外国人労働者が多いので、いろんな国の料理を食べることができる。金曜日の午後に公開の処刑が行われることがある。
依頼された場合の主な講演項目
 イスラム教の戒律。サウディ・アラビア王国。アラブとイスラエルの問題など。

★ 所澤 剛(しょざわ つよし)
当時の勤務先 1)長崎大学熱帯医学研究所病理学部門、2)秋田大学医学部病理学第二講座
プロジェクト名 1)ナクール州立病院支援プロジェクト、2)シャーガス病等寄生虫症研究プロジェクト、3)個別専門家派遣事業
派遣された国 ?@ケニア共和国

パラグアイ共和国にて

 ?Aパラグアイ共和国 ?Bウルグアイ東方共和国

生活した都市 ?@ナクール市 ?Aアスンシオン市 ?Bモンテビデオ市

派遣された年月    ?@1971年5月〜1972年7月 

      ?A1990年7月〜8月、1991年10月〜1993年3月 

      ?B1994年10月〜1995年10月

任務内容   ?@臨床検査病理部門の確立整備、技術員の要請

    ?Aアスンシオン大学保健科学研究所にて病理学に係わる技術指導

    ?B共和国大学医学部衛生研究所にてエキノコックス(人の包虫症感染診断)に係わる技術指導

任地の概要など

?@ ケニャ共和国

派遣された昭和46年(1971)当時のケニア共和国は独立(1963)後間もない時期で国民は独立の喜びに溢れ、活気に満ちていた。国土の広さ;日本の1倍半、人口は1千万以上。住民はキクユ族、ルオー族の他に多数の部族よりなる。首都;ナイロビ。言語;スワヒリ語、英語経済;国内には鉱物資源が乏しく、農業生産量も低く、経済状態は貧弱であった。国内経済はインド系住民に支配されていた。国内政治、軍、警察は大統領の出身部族のキクユ族が握っており、治安は一応安定していた。しかし住民にはルオー族をはじめ、スワヒリ語と異なる言語を持つ部族が多数おり、それぞれが固有の生活習慣をもっている為、目常の診療や業務を行う上でかなり困難を覚えた。国民の主食はウガリ(とうもろこし粉をそばがき様にしたもの)、副食は豆、時に肉、卵などでその生活は貧しかった。ケニア全体で約800名の医師(その主体はインド人)を数えたその大半以上がナイロビに集中しており、任地のリフトバレイ州の面積は日本の本州ほどの広さに僅か30名程であつた。州全体では州都ナクールにある州立病院の下に19の公立、地区病院があり、その地区病院のもとに126の公立ヘルスセンターがあった。これらの施設では正規の医師が足りないので看護夫(男)に1・2年特殊訓練をした医療助手と助産婦が診療に参加していた。従って長崎大学から派遣された医師は貴重な存在であった。この地域には13のミッション系地区病院、34のミッション系ヘルスセンターがあった。州立病院の施設は貧弱であるが外来、入院患者数は非常に多く、ベッド数は2百床以上あるにもかかわらず患者の平均入院日数は4日と短く、手術予定が一月先まで詰まっていた。住民の健康を維持には長く困難な道のりがあると考えらたがとりあえず医療施設、器具、臨床検査器具、薬品の充実、補充等のほかカウンターパートナーの医療技術者の能力のレベルアップが必要であると痛感した。この現状は現在でも殆ど改善されていないとの報告を得ている。

?A パラグアイ共和国

短期並びに長期派遣された当時。34年間政権を担当していたストロエネス大統領が軍事クーデターで失脚し、これを指揮したロトリゲス将軍が大統領に就任して間もない時期であった。パラグアイは南米大陸の略中央にあり、亜熱帯性気侯を示し、国土の広さは日本よりやや広いが人口は420万前後。国土の西北部1/2はチャコ地方と呼ばれ不毛の土地で往民は殆どおらず、人口は東部のラプラタ川上流になるパラグアイ川とパラナ川に囲まれた地域に集中している。住民の90%以上が原住民とスペイン人の混血、残りはヨーロッパ系、原住民、東洋系(日系)言語はスペイン語とグァラニ語が国語であるが識字率が低く、政府は初等教育に力をいれているが国民の生活水準は低いため学童は労働に追われ、一方学校の設備、教材も不足している。主要産業は畜産、農業で輸出品の大半を大豆、綿花が占めている。しかも内陸にあるため物資の輸送経費が高いのが産業活性化の問題になっている。労働人口の多くがブラジル、アルゼンチンに長期出稼ぎに出ている。亜熱帯のため農産物は多彩であるが農民の主食はマンジョウカと呼ばれる芋の一種と肉が主体である。国教はカトリックであるが信教の自由は保障されている。首都;アスンシオン市(人口100万以上)

日本人移民;1936年に始まった日本人移民は第二次世界大戦で一時中断されたが昭和30年より再開され、移民50年にあたる1985年には永住者と日系人数は7385名、移民は農業移民で開拓事業に従事し大豆、小麦、米の生産を可能にし、その功績は高く評価されている。現在ではその子弟の内役人、大学教授、医師、その他の事業に従事しているものが増加してきている。?Bウルグアイ東方共和国

ラプラタ川の大西洋開口部北岸に位置する標高差の少ない国で国土の広さ;日本の約半分、人口;313万(1992)気侯は温暖。住民はスペイン系、イタリア系を主とするヨーロッパ系が大半。現在原住民はいない。

政治形態;立憲協和制,大統領制、2院制。社会保障制度が早くから発達しており、その一環として公立学校の授業料は大学まで免除されており国民の知的水準は高い。しかし年金給付、医療保険、教育費の無料化などの経費は国家予算を強くあっぱくしている。伝統的主要産業は農牧畜であったが最近はこれら農牧業を基盤とした製造業も盛んになってきた。この国には為替管理がなく外貨取引が自由に行われ外貨預金関係の業種が増加しており、またブラジル、パラグアイ、アルゼンチンとともに貿易自由協定(メルコスール)が結ばれている。宗教;カトリックが多いが信教の自由が保障されており、シナゴーグも多く見られた。

日本人移民;正規の日本人移民はいないが隣国のアルゼンチン、ブラジルから転居し首都モンテビデオやその近郊に居住して農業、商業に従事活動しており、日本人会も作られている。

 

★ 菅原 清吉(すがわら せいきち)

当時の勤務先 

プロジェクト名 下記任地の概要の通り

派遣された国 カンボジア、インド、インドネシア、エジプト、タンザニア

生活した都市 バッタンバン、MP州、ランポン、タンタ、モシ

派遣された年月 27年半

任務内容 農業機械、農業機械化に係わる技術指導

 

任地の概要など

カンボジア:バッタンバン農業センター(稲作主体)。戦争勃発で途中帰国。

インド:ダンダカラニアプロジェクト(稲作主体)。当時の東パキスタン。ヒンズー教徒難民定着プロジェクト。乾期の日中は40℃前後。自家発電は夕方6時から夜10時まで。厳しい気象、生活条件。コブラ、サソリは毎日の友達?だった。

インドネシア:ランポタンマムールプロジェクト(水稲、陸稲主体)。ランポン州は(現在名称はバンダルランポ州)ジャワ人の国内移住地。稲作の増収目的のため実証試験、普及訓練を実施。気象、生活条件は良好だった。

エジプト:ライスメカナイゼーションセンター。稲作機械化実証試験主体。慣れるまで時間がかかるが、その垣根を越えれば親しい友人になる。

タンザニア:キリマンジェロ農業開発計画。1,100ha、2,000農家。稲作の増収からの生活向上が確認できる喜びがあったが、それが逆に水騒動へと発展し、現地事情の難しさを痛感させられた。

 

★ 高橋 三夫(たかはし みつお)

当時の勤務先 農林水産省東北農政局

プロジェクト名 ミャンマーかんがい技術センター

派遣された国 ミャンマー国(任国配属機

関:農業省かんがい局)

生活した都市 ヤンゴン(首都、居住地)、バゴー(プロジェクトサイト)

 

派遣された年月 1992年5月〜1994年9月

任務内容 建設材料の試験及び解析(コンクリート材料、土質材料、鋼材等)

任地の概要など

ミャンマーはインドシナ半島にあり、西はベンガル湾(アンダマン海)をのぞみ、西にバングラデッシュ、インド、北に中国、東にラオス、タイ、マレーシアに接している。面積は日本の1.8倍の68万平方キロで、国の中央を南北にエーヤワデー川が貫流する。中国との国境には5,881mのカカボラジ山などの高山が連なっている。日本のような四季はなく、5月から11月が雨季、12月から4月までが乾季に大別される。雨量は南部の海岸で4,000〜5,000mmと多く、逆にミャンマーの第二の都市マンダレーがある中部は600〜800mmの乾燥地帯です。

ミャンマーの人口は4,450万人、その内70%がビルマ族ついでシャン族、カレン族、アラカン族、モン族と続きビルマ族が主に平地に住みそれ以外の小数民族は国境近くに住んでいる。上座部(小乗)仏教が90%、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教である。

ミャンマーの主要な産業は農業である。稲作を中心に野菜、トウモロコシ、小麦、豆類などです。鉱工業は取り立てていうものはありません。国の70%が森林に覆われている中で、チーク材が有名です。道路、鉄道、港湾、電気、通信などのインフラ整備は非常に遅れており、停電は日常茶飯事。仏教が盛んなことから全国に多くの仏塔(パコダ)があり、中でもパガン遺跡(世界三大仏教遺跡)は有名です。

イギリスの植民地時代が長く、一時日本の占領があったが戦後再びイギリスの植民地化にあったがアウンサン(アウンサン・スーチー女史の父)により独立を勝ち取った。ミャンマーの男女とも多くは長スカート(ロンジー)をはきます。主食は米(インデカ米)でおかずは油を使った揚げ物が多い。果物はバナナ、オレンジ、パイナップル、パパイア、マンゴーと豊富です。都市ではコンクリートのアパートがありますが、首都から30分もしなくとも庶民の住むバンブーハウスがあります。

ミャンマーかんがい技術センタープロジェクトは、米を中心に単位収量の増加、作付け面積の拡大を図るという政府の重点施策の要請から、かんがい技術の向上と技術者の養成を目的に計画されたものです。技術協力分野は、かんがい一般、設計基準の作成、材料試験、コンピューターの導入、水利模型実験、技術研修コーディネータを含めて5名が参加した。建設材料試験分野の技術協力は、コンクリート試験、土質試験、土質調査、水質試験の技術移転及びこれらに関するケーススタディーです。具体的には、試験・調査に関する基礎的理論、日本からの試験機器の操作方法、試験方法、結果の整理、結果の活用です。C/P含めて正規・臨時職員の数は35名でした。短期専門家として、地質学、品質管理、コンクリート工学、水質試験、器材点検・保守の派遣をいただいた。試験・調査の器材関係は日本から無償資金等で供与された。現在フェーズ??が終了してプロジェクト自体が終了した。

 

★ 田村 光博(たむら みつひろ)

当時の勤務先 (財)日本国際協力センター 研修管理員

プロジェクト名 勤労者職業病予防プロジェクト

派遣された国 大韓民国

生活した都市 ソウル特別市

派遣された年月 1992年6月〜1995年5月

任務内容 韓国労働部など計3団体との業務調整員

 

中央右

任地の概要など

ソウル市は厳寒時はマイナス15℃程。夏は35℃くらいになることもあるが、東京のような耐え難さはない。日本とは異なり家屋は冬に備えて建てられている。ハングル文字さえなければ日本にいるような錯覚に陥ることもあります。首都と農村部の差はまだ大きく感じられます。

韓国がOECDに加入したためこのプロジェクトは最後から2番目のものになりました。多くの心温まる方々にお会いしました。簡単な関係ではありませんが、日本人が一番近しくなれる方々であるというのが実感です。

主な講演項目 「Koreans Now」、「最近の韓国事情」

 

★ 野口 常介(のぐち つねすけ)

当時の勤務先 林野庁東北林木育種場(現独立行政法人林木育種センター東北育種場)

プロジェクト名 ?@インドネシア林木育種計画 ?Aウルグアイ林木育種計画

派遣された国 ?@インドネシア ?Aウルグアイ

生活した都市 ?@ジョクジャカルタ市を本拠地として活動 ?Aタクワレンボ市

派遣された年月 ?@1990年10月-同年12月 ?A1992年12月,1993年4月-1995年8月

任務内容 ?@インドネシア林木育種計爾の実施に伴う同国の林業事情と育種事業関連調査

    ?Aウノレグアイ林木育種計画実施協議団(育種全般)と同プロジェクトの技術    

     専門家〈リーダ・増殖技術〉

 

任地の概要など

?@ インドネシア

1. 東西5,000キロ、南北1,000キロの広い範囲の中の、多くの島からなる世界最大の島嶼国家。人口1億5千万、多種族・多文化の国でもある。多くの島の中では、ジャワ島の人口密度が高く、集約な土地利用がなされている。

2. ジョクジャカルタは首都ジャカルタの東約600?H、ジャワ島中央部のインド洋側に位置する都市。古く、ジャワ島を支配した王朝の都として栄えた所である。ジョクジャとも言う。

3. 同市の人口約50万、大きな産業はないが、大学や専門学校が多く、学生の町と言われている。

4. 1年が乾季(4〜9月)と雨季(10〜3月)に区分されるが、首都のジャカルタに比べ乾季が長く、凌ぎやすい気侯。

5. 市内にはクラトン・ジョクジャ王宮が、郊外にはポロブドール・ブランバナンなど、仏教・ヒンズー教寺院の遺跡群がありジャワ島観光の基点都市である。特産品としてジャワ更紗(バティック)、銀細工、木彫、藤製品など伝統工芸品が多くある。

 

?A ウルグアイ

1. 日本の約1/2の広さで、人口330万人、1?H2当たりの人口密度は17.5人。人口の40%が首都モンテビデオ市で生活する、都市への人口・集中が顕著な国である。

2. 国内の殆どが緩やかな平地〜台地状の地形で、農牧業に適する面積が国土の90%に及ぶ。主要な産業は自然放牧を主とする畜産業である。

3. タクワレンボ市は首都モンテビデオの北約400?Hにあり、国の東〜西を結ぶ国道と南北に走る国道との交点にあって、ブラジル国境まで110?Hの位置にある。

4. 同市の人口約4万3千。市の郊外は延々と牧場が続く。市の中心部は碁盤の目の街並み、街路樹や緑地が多く、四季を通じて花が絶えず、美しく気持ちの良い町である。

5. 首都から同市へは、国道5号を走る長距離路線バス(4時間半で結ぶ)を利用する。

6. 毎年3月中旬には4日間の日程で「ガウチョ(牧童)の祭り」が、市の北はずれの公園で開催される。市を挙げて行われ、多くの市民で夜遅くまで賑わう。

 

★ 松田 幸久(まつだ ゆきひさ)

当時の勤務先 秋田大学医学部附属動物実験施設

プロジェクト名 実験動物技術者養成プロジェクト

派遣された国 中国

生活した都市 北京

派遣された年月 1994年8月16日〜1994年9月24日

任務内容 中国医学科学院にある実験動物人材養成センターで実験動物の飼育管理方法を技術者に指導

 

実験動物人材培訓中心

任地の概要など

北京は思ったよりも治安が良い。女性の深夜の一人歩きも目につく。麻薬を所持しているだけで死刑となる国であるから、痴漢等の犯罪にも厳しい罰が下されるためなのか、それとも女性の権力が強いためなのか、チャイナドレスの下から太股をちらつかせている女性達にそれ程警戒の色はない。私の宿泊したホテルは亮馬河の辺にあり、夕刻になると涼を求める男女が川岸にあふれる。北京の住宅事情はかなり厳しいものらしい。狭い石作りの家に家族が犇めき、暑苦しい家を逃れた上半身裸の男達が日の暮れから夜更けまで道端で中国将棋に興じている。日本でも嘗て縁台将棋などというものがあったころは同じような住宅事情ではなかったろうか。

北京に着いてすぐ注意されたことは、「事故の危険性が多いので車の運転はするな」、「北京駅や北京動物園などの人込みには掏摸が多いので気を付けろ」、「屋台の食い物は腹をこわすので食べるな」であった。

 

 

 

 

★ 宮原 萬芳(みやはら たかよし)

プロジェクト名 南部パラグアイ農林業開発プロジェクト

派遣された国 パラグアイ共和国

生活した都市 エンカルナシオン市

派遣された年月 1984年6月〜1987年3月

任務内容 パラグアイ農業試験場における大豆育種法の確立のための指導

前列左

任地の概要など

パラグアイは、南アメリカ大陸のやや南よりに位置し、北はボリヴィア、東はブラジル、南と西はアルゼンチンに接する内陸国(南緯17度56分〜27度30分、西経54度45分〜63度20分)である。国土面積は40万平方km強で、日本より約1割大きい。国内を北から南に流れるパラグアイ河によって東西に2分され、東パラグアイは国土の約40%、西パラグアイは約60%で産業は東部に発達しているが、これは亜熱帯にありながら大陸内部の気象的影響が大きいことに因る(年平均気温は23.4℃であるが、地域によっては夏期は40℃を越し、冬季(6〜8月)は明け方氷点下を記録することもある)。

人口は約400万人で、その分布は相対的に開発の進んだ東パラグアイに集中し(全人口の98%)、さらに、その80%はアスンシオン市(首都)、ストロエスネル市、エンカルナシオン市を結ぶ“三角地帯”に集まっている。

1811年5月14日にスペインから独立したパラグアイは現在立憲共和国で、大統領は8期目のストロエスネル氏である。日本とは、昭和34年(1959年)に移住協定、昭和54年(1979年)に技術協定が結ばれ、また昭和53年(1978年)には日パ青年海外協力隊員派遣協定が結ばれて、今日に及んでいる。

パラグアイへの日本人の移住は、1936年から始まったが、第二次大戦で一時中断し、戦後再開され、現在6地区を中心に約7,500人が在住し、農林業を主体に従事して大豆の生産で外貨を稼ぎ、従来輸入していた小麦の国内生産を可能にし、また野菜類を供給するなど、この国の振興に寄与している。

我々の南部パラグアイ農林業開発プロジェクトは、国の南東部イタプア県に所在する地域農業センター(CRIA)、農業機械化訓練センター(CEMA)及び林業開発訓練センター(CEDEFO)の3部門に12名の専門家が配置され、それぞれの技術移転に携わっている。殆どの専門家はエンカルナシオン市に居住して20〜60km離れた事務所に通勤している。エンカルナシオン市には、日本の領事館、JICA支所などの公的機関もあり、約1,000人の日本人も在住され、商店などもあり、日常生活に不便はなかった。