トルコ感染症対策

プロジェクト


元チームリーダー兼
感染症サーベイランス専門家
森田 盛大

        
  1. プロローグ
     1997年3月、30数年間勤めた地方衛生研究所(地研)を定年退職し、長年の疲れを癒しながら、 幸い内定していた第2の職場のための準備をしていた。そんな時、予てよりご高誼を賜っている元国立予防衛生研究所( 現国立感染症研究所)所長の大谷明先生から、「この秋、トルコで開始する予定で検討している感染症対策プロジェクトの 長期調査(所謂、事前調査)に行ってみないか」、というお誘いを受けた。これは大変ありがたいお話しであった。
     と言うのは、私は、これまで、主に微生物や感染症の疫学やサーベイランスに関して、ささやかな がらも仕事を行ってきたので、退職後も、もし可能であれば、乏しいながらも、この経験と知識を役立てる機会があれば、 しかも海外で、と密かに願っていたからである。
     そんな訳で、「分不相応な仕事をお引き受けするだけの力が、本当に、自分にあるのか」ということを 深く突き詰めることもなく、お誘いをお受けしてしまった。それがこのプロジェクトにかかわる切っ掛けであった。しかし、 自分の無力さ、力不足さを、その後間もなく、いやという程、思い知ることとなった。
     その反省の意味も込めて、以下に、このプロジェクトの経緯を紹介する。 ただし、極めて饒舌になってしまった点、ご容赦いただければ、幸いである。

  2. 感染症対策プロジェクトの背景
     1980年代のトルコは、1940年代後半までの日本のように、様々な伝染病・感染症が猖獗を極め、 それに伴う乳児・小児死亡率も極めて高かった。このため、トルコ政府は、1985年から、WHOが1981年に提唱した予防接種 拡大計画 (EPI)を国家プロジェクトとして、大々的に取り組んだ。その結果、予防接種率は飛躍的に上昇した。しかし、これをさらに質的に向上 させて推進していくためには、先ず、有効且っ安全なワクチンを確保し、供給していく必要がある。接種率が 幾ら上がっても、ワクチン 自体の有効性に問題があれば、効果が計画どおりに期待出来ないからである。
     そのワクチンであるが、大半は外国製に依存しなければならなかった。勿論、トルコは、国家戦略 として、ワクチンを自国で生産しようと絶えず考えてきた。幾世紀にも亙って中東に君臨し、欧州に恐怖を与えてきたオスマン 帝国(トルコ)が20世紀の初頭に欧州列強に屈し、国家が支離滅裂になろうとした危機一髪の時、建国の父「アタチュルク」が立 ち上がって、トルコ共和国として蘇らせた。そういう栄光と敗北と再生の歴史を持っトルコは、以後、対外的には中立外交を基本 として来たが、自国の防衛には並々ならぬ意を注いできた。国民の生命や健康に重大な影響を与える伝染病・感染症を阻止するワクチンも その一環であったと言えよう。万が一、外国と戦争しなければならない最悪の事態に陥ったとしても、この面における生殺与奪の権を 当該国に与えないためには、自国でワクチンを製造する体制を作る必要があるというのが、その主張のようである。プロジェクトサイト となった、後述の国立中央衛生研究所 Refik Saydam Hygiene Center (RSHC)の創設の主要な狙いの1つもここにあった。だから、 プロジェクトの期間中にも、再三再四にわたり、ワクチン製造にかかわるうねりが、時には大きく時には小さく、繰り返された。 そういう願いにもかかわらず、結果的には、結核のワクチン以外、さしたる成果を上げることが出来ずに今日に至ったのが実情であった。
     このため、ワクチンの大半を外国製に依存しなければならなかったのである。しかし、輸入すれば、 それで事足れりという訳ではない。不良品をっかまされたのではたまったものではないから、輸入したワクチンが果たして効能 どおり有効且つ安全であるのか否かをチェックしなければならない。ワクチンの検定である。ところが、ワクチンの検定体制が極めて 脆弱であった。
     この脆弱なワクチン検定技術を改善するため、トルコ政府は、日本政府(国際協力機構JICA)に技術協力支援を求めてきた。 それが、1993年にスタートした「生物製剤品質管理プロジェクト」である。首都アンカラにあるRSHCで実施されたこのプロジェクトは、 1996年後半、成功裏に終了し、ワクチン検定に関する実験室内技術や機器が大幅に改善された。しかし、これでワクチンにかかわる すべての問題が解決された訳ではなかった。例えば、検定に合格したワクチンの接種時までの的確な冷却保管管理の問題、接種時にかかわる 問題(公衆衛生従事者の充実、対象住民に対する啓蒙、反政府運動によるデマ対策など)などである。
     しかしともかく、輸入ワクチンが大半を占めたにせよ、少なくとも、自国でキチンと検定して接種できるようになった のであるから、EPI関連感染症対策としては大きな前進であった。しかし、科学的根拠に基づく伝染病・感染症対策や予防接種対策を的確、 効果的且つ効率的に展開していくためには、さらにもう1つの問題を解決する必要があった。言うまでもなく、伝染病・感染症の発生動向には、 政治、経済、人口、社会(文化・風習・宗教など)、公衆衛生・保健衛生、地勢・気候、食料、教育等々の様々な因子が直接間接的に複雑に絡み合ってかかわっている。 それ故、効果的且つ効率的な伝染病・感染症対策を立てようとする場合には、予算の確保、公衆衛生従事者の充実、住民の啓蒙など、 いろいろな事項を考慮しなければならないが、それと同時に、次の2点を把握しておく必要がある。第1点は、住民の当該伝染病・感染症に対する 免疫保有動向を定期的に把握すること(感受性調査)である。第2点は、病原体の確定診断体制を確立して、病原体の動向を絶えず把握すること (感染源調査)である。特に、EPI関連感染症はワクチンで予防できる疾患であるから、最小限、この2点さえ確実に把握できれば、 必要に応じたワクチン接種や防疫措置や診断治療措置などをより的確に実施できるだろう。この2点の調査が、このプロジェクトで言う 「流行予測調査」なのである。
     ところが、トルコには、これらのチェック体制が出来ていなかったのである。例えば、第2点に関連して言えば、 トルコにも伝染病統計はあるが、その大半は臨床診断に基づくものであった。しかし、麻疹とか破傷風のように、典型的な臨床像で確定診断 できるものであればよいが、多くの感染症には類似疾患が多く、病原診断しなければ確定できない。従って、これらの対策を計画し、実施し、 評価していく場合、これらの既存の統計がどこまで信用できるのかという問題が絶えず付きまとっている。

    トルコの首都アンカラ
    中央奥の緑地帯にRSHCがある。

      
    アンカラ城塞のゲジュコンドにて

      
    世界遺産サフランボル近くの村の春

  3. プロジェクトの概要
     このようなことから、1997年10月、「トルコにおけるEPI関連感染症の制圧」を上位目標及び「実験室データーに 基づく流行予測調査システム(A laboratory supported epidemiological surveillance system)の確立」をプロジェクト目標として、RSHCを プロジェクトサイト(後半からは保健省 Primary Hearth Care (PHC)総局も参加)とする「トルコ感染症対策プロジェクト」がスタートしたのである。 上述の「生物製剤品質管理プロジェクト」の第2フェースである。協力期間は2002年9月までの5年間である。
     なお、話の都合上、ここでRSHCを簡潔に紹介しておく。RSHCは、日本の国立感染症研究所や国立医薬品食品衛生研究所 や国立環境研究所をミックスしたものに相当する国立中央衛生研究所で、トルコ共和国初代保健大臣、大蔵大臣、第4代首相を務めた医師の Refik Saydam によって、共和国建国間もない1928年に創設された。当時としては極めて近代的且つ先鋭的な、意欲に溢れた研究所であったことは当時の研究史や 大理石を使ったドイツ式の重厚な研究棟が連なる様相などから窺える。現在の研究所は、事務部門や研修部門を含めた18部門と約750名のスタッフを 擁した大規模試験研究機関であり、地方にも後述の地域を含めた地域衛生研究所(RSHC支所)を配下に擁している。しかし、組織上は、PHC総局と同様に、 「保健省次官補」下にとどまっている。発足当時は保健大臣直属ではなかったかと思われるRSHCが、組織的にもまた研究活動的にも、日本の技術支援を 受けなければならなくなるほど後退、沈滞してきた背景には、共和国建国以来様々な変遷を辿ってきた政治情勢や近代化に向けて加速的に改善できなかった 社会経済状況などが複雑に絡んでいるのではないかと思われる。
     話を本題に戻そう。このプロジェクトは、サムソン県(黒海沿岸)、アンタルヤ県(地中海沿岸)、デイアルバクル県(イラク寄り の東南内陸部)を対象地域として、RSHCとこれら3地域のRSHC支所を結んだネットワーク体制で流行予測調査のモデル調査を行い、トルコの国情に即した 「流行予測調査システム」を確立しようというものである。具体的な活動は以下の4本柱で構成されている。第1はEPI関連感染症(ジフテリア、百日咳、 破傷風、ポリオ、麻疹の5疾患。後にB型肝炎が追加)に関する実験室内技術(病原体の分離同定・性状分析技術、抗体測定技術およびこれに必要な機器・設備等) の強化、第2は流行予測調査に関する調査技術と運営管理技術の強化、第3はRSHCと保健省PHC総局の技術連携協力体制の確立と促進、そして第4は血清銀行の 確立である。くどいようだか、もう少し分かりやすく、活動の流れを時系列的に言い直す 一前後交錯する事項もあるが一 と、「RSHCとPHC総局の技術連携協力 の確立・促進とC/Pの配置⇒大幅な実験室の全面改修⇒検査機器等の近代化⇒実験室内技術の移転⇒感受性調査試行(一般住民からの血液採取)⇒血清抗体測定検査と血清銀行作業⇒感受性調査成績解析・報告⇒感染源調査試行(病原体分離材料採取と分離同定検査)⇒感染源調査成績解析・報告⇒トルコの国情に適した「流行予測調査及び血清銀行」に必要なガイドラインとマニュアルの策定(プロジェクト目標)⇒上位目標に向けての保健省の感染症対策・予防接種対策等への流行予測調査の組み込み」、という流れになる。また、将来(プロジェクト後)、もし可能であれば、このサーベイランスを「他の感染症や第3国にも波及、拡大していく」 という期待も秘められている。

    プロジェクトサイトの国立中央衛生研究所RSHCの本部正面

      
    サムソン県知事にプロジェクトへの協力要請

     こういう内容になったのは、実は、日本では、1960年代から「厚生省(事業主体)一都道府県一保健所』の行政ラインに「国立感染症研究所一地方衛生研究所」の試験研究機関ラインが参加して、感受性(免疫保有)調査と感染源(病原体)調査からなる「伝染病流行予測調査(「流行予測」 というネーミングは一般に誤解されやすい。真意は「epidemiological surveillance」)」が実施され、感染症対策や予防接種対策に科学的根拠を与えてきた 実績があったからである。また、感受性調査などで採取された血清は、国立感染症研究所内にある血清銀行で保管管理され、例えば新興感染症や再興感染症などの 発生や流行の解析調査等に用いられてきた。なお、病原体調査は多くの国々で実施されているが、サーベイランスとしての感受性調査は我が国独自のシステムと言えよう。
     一方、このプロジェクトを進めるために派遺されたスタッフは、発足時、長期専門家5名と調整員1名の計6名。この内、専門家4名と 調整員は途中で交代した。私は、これに先立つ1997年5月の約1ケ月間、プロジェクトを立ち上げる最終調査のため長期調査員として派遣されたが、チームリーダ一兼 感染症サーベイランス専門家としてプロジェクトに参加したのは、他の専門家より遅れた1998年2月末からであった。また、長期専門家が移転できない技術を指導するため、 協力期間中、多数の短期(多くは数ケ月)専門家を派遣していただいた。
     また、こうした各専門家の方々による技術指導に加えて、カウンターパート(C/P)の本邦技術研修を日本の試験研究機関などにお願いした。 これは、1) 派遣専門家でカバーしきれない必要不可欠の技術があったこと、2) 日本における「流行予測調査・感染症サーベイランス、実験室のバイオセーフティ対策、 厚生省と感染症研究所の連携、感染症研究所と地研の連携など」の実際を体験させる必要があったこと、3) 副次的には、研修や滞在生活を通して、「トルコにとって、 日本という国はどういう国なのか」などを彼らの目で実際に正しく理解してもらいたかったこと、などのためである。研修をお願いしたのは、厚生省、感染症研究所、 地研(秋田、宮城、千葉など)、阪大微生物研究所、結核予防会結核研究所、ワクチンメー力一などであるが、快く研修を受け入れていただいたこれらの機関に、 この紙上をお借りして、改めて厚くお礼申し上げたい。ともかく、日本に出掛ける前と比較すると、帰国した彼らの多くは自信に溢れ、その目が断然輝き、その後の プロジェクトの円滑な進捗に極めて有為に機能したことは言うまでもない。
     技術指導に必要な機材として、実にさまざまな機材が日本から供与された。また、トルコ側も、当然のことながら、研究棟2棟の4フロアの 実験室等(ウイルス部、感染症研究部、結核部バイオハザード室、疫学室及びプロジェクト事務室)並びにRSHC支所実験室の全面的な改修工事を含めて、約1,700万ドル 相当の予算をプロジェクトにあてた。1997年5月の事前調査でRSHCや3ケ所の支所を視察した際、日本の昭和30年代前半位までの地研のように、あまりにも貧しく 老朽化した施設設備に唖然としてしまい、本当に改善できるのだろうかと危惧してしまったが、プロジェクトの進捗と共に、これらは飛躍的に改善され、向上していった。

  4. プロジェクトは順調に動いたか?
     プロジェクトは、計画に基づいて、順調に進捗したか? 左にあらず、幾度も暗礁に乗り上げようとした。例えば、実験室改修工事の遅延、 保健省PHC総局の頑な協力拒否、検定不合格ワクチン事件、プロジェクトマネージャーであるRSHC所長の度重なる交代(政治ポストであったため)によるトルコ側のプロジェクト運営管理の遅滞、ラップトップコンピューターの紛失事件、プロジェクト目標やサーベイランス定義・内容に関する両国間及び専門家間の認識や理解のずれや乖離、チームリーダーである私の「プロジェクトの進め方」などに対する専門家の様々な批判などなど、今思い出しても、よく乗り切って、成功裏に最終ゴールに辿り着くことができたな、と思ってしまうほどであった。
     これらの1つ1つをここに詳述する紙片はないが、プロジェクトの成否を決めるという意味で、協力を頑なに拒み続けたPHC総局問題は極めて重要なことであったので、少しく詳しく述べる。何故ならば、実験室内技術の移転が一応軌道に乗ってきたとは言っても、もう一方の主眼である流行予測調査システムを 構築するためのモデル調査の実施に目処が立たなければ、上記4本柱のプロジェクト活動の内、第2、第3、第4の柱が動き出さないからである。例えば、地域住民からの 血液採取(感受性調査)にしても、PHC総局の承認なしには実施できない。保健所が動けないのである。また、RSHCとPHC総局が連携協力して(第3柱)流行予測調査を組み立てていかなければ、第2と第4の柱も動き出さない。私はチームリーダーであると同時に、感染症サーベイランス(流行予測調査)担当の専門家であったから、「如何にPHC総局の 理解を得て、プロジェクトに協力してもらうか或いは参加してもらうか」は私に課せられた重大な責務であったので、これをクリアーできなければ、リーダー交代で場面転換を はからなければならないと思った。


    首都にある荘厳なアタルチュルク廟からの俯瞰(ビルの赤い垂れ幕は“アタチュルク”の肖像)

     しかし、PHC総局と折衝を繰り返していくうちに、彼らが頑なに協力を拒むのは、少なくとも3つの理由があるからではないかということに気づいた。 第1はR/D (Record of Discussion)である。両国がプロジェクトの目標や実施内容などを決めたR/Dに合意することによって、プロジェクトが正式に発足するのであるが、 このR/DにPHC総局の役割が明記されていなかったのである。第1フェースの「生物製剤品質管理プロジェクト」は実験室内技術の移転のみのプロジェクトであったから、 RSHC内のみで事足りたが、「感染症対策プロジェクト」の場合は、RSHCのみならず、PHC総局の協力も欠かせない。しかし、R/Dには、PHC総局の役割が明記されていなかったのである。 このための彼らの反発である。彼らの言い分は「流行予測調査は、本来、PHC総局が担当すべき分野なのだから、プロジェクトはPHC総局と組んでやるべきなのに、RSHCと組んでやる とは何事か」、と言うのである。これはまた、日本のプロジェクトを取りこめず、RSHCに独り占めされたことへの反発でもあり、恨みでもあるのではないかと思った。
     第2は、これも一種の権力争い、勢力争いである。元来、RSHC所長とPHC総局長は保健省次官補に直属して同格であるが、プロジェクト発足時のRSHC所長 と総局長との間は犬猿の関係であった。根っこを辿れば、組織上どちらの位が上か下かということらしい。これも、どこの世界でもよく見られる話であったが、悪いことには、 そういう関係や雰囲気がその後交代したRSHC所長側や総局長側に連綿として引き継がれてしまったことである。
     第3は、「プロジェクトで、僅か3地域を対象としてモデル調査を実施 したところで、全国的な傾向が解るのか、行政に役立つような成績が得られるのか」というPHC総局側の疑念であった。この調査の意義や内容を理解していなければ(これまで幾度も 説明してきたにもかかわらず)、当然想定される疑念とも言えよう。これに対して、日本での状況や実績を示しながら、「規模と期間が限られているのだから、トルコの国情に 即した調査方法やシステムを確立するために最小限必要な範囲に限定して、実施せざるを得ないのだ。しかし、この3地域といえども、例えば地勢的にも社会経済的に異なる地域であるから、 基本的な全国傾向を見ることは十分可能であり、感染症対策や予防接種対策に必ず役立つ筈だ。ともかく、トルコ側が望む規模の調査をいつでも独カで容易に実施できるような調査システムを 構築し且つこのために必要な技術を移転すること、これがこのプロジェクトの眼目なのだ。」と説得したが、容易に理解を示そうとはしない。最初から拒否しようという腹積もりなのか、 積極的に理解しようという姿勢は見られない。正に、暖簾に腕押しである。それでも、いろいろな角度から辛抱に辛抱重ねて、説得し続けた。

  5. ついに、流行予測・感受性調査は動き出した!
     1999年4月、大谷明先生を団長とする山崎修道先生(前国立感染症研究所長)や井上栄先生(同所感染症情報センター長)らの巡回指導調査団が来土した。 主眼の1つは、PHC総局やRSHCを対象に流行予測調査に関する教育講演を行うことであった。この来土に先立つ数週間前、私は「日本の流行予測調査と感染症サーベイランスシステム の説明会」 を二日間に亙り開いたが、それはともかくとして、調査団による教育講演会はC/Pたちに強いインパクトを与えつつ、流行予測調査に関する理解促進に大きく機能した。 もう1つの狙いは、勿論、プロジェクト推進に関するトルコ側との協議であった。この協議で、「PHC総局がプロジェクト運営の最高決定機関である合同調整委員会に加入すること」 が合意された。 また、当時、「流行予測調査、即ち、Epidmiological surveillance」の定義や具体的な内容について、プロジェクト内に様々な議論があった。サーベイランスと一口に 言っても、 実に広範囲で様々であるから、それぞれ立場でやり方も中身も違ってくるのは当然と言えば当然であるが、この調査団によって、この議論が1つに収斂されていったことは、 プロジェクト活動にとって、極めて重要なことであった。
     こういう調査団の強力な働きかけにもかかわらず、PHC総局の拒否姿勢が一気に崩れることはなかった。そしてこの間、保健省上層部が交代した。 医学部教授出身の保健大臣も同助教授出身の次官も、この年の4月の国政選挙で勝利した右翼政党の支持者であり、7月に就任した医学部助教授出身のPHC総局長も同政党支持者である。 この政党の影響がプロジェクト活動にどのように出てくるだろうかと懸念しながら、直接的、或いは、総局長と親しいという同政党支持者のRSHC所長を通して間接的に、 総局長への説得を繰り返した。しかし、総局長側は、依然として、協力をあれこれと渋り続けた。


    RSHC、3県の保健部及び支所からなる、流行予測調査のためのワーキングチーム会議

     一方、それまで、ただ単に手をこまねいている訳にはいかなかった。準備すべき事項があれこれとあるので、例えば、ネットワークに組み込んだ3地域を回って、 各県保健部に協力を要請し、「PHC総局が承知さえすれば、是非協力したい」という快諾を取り付けていたし、また、いつ始まっても対応できるように、調査実施方法案を作成し、 調査のためのワーキングチーム体制や資材の準備も進めていた。また、サーベイランス担当のC/Pも配置され、サーベイランスのための疫学室も開設されていた。 こうして必要ないろいろな準備を進めてきたが、肝心要のPHC総局長が動かない。これでは、リーダーを交代して、劇的な場面転換を図ることが必要ではないかと考えた。 しかし、その年の秋、PHC総局から、これまでとはかなり違って、「PHC総局としては、プロジェクトの血清疫学調査(感受性調査のこと)は必要としないが、RSHCから要請があれば、 調査に協カする」という回答が出された。消極的な、煮え切らないような回答ではあったが、扉が少し開き始めたと感じた。早速、3地域の県保健部とRSHC支所をRSHCに招集し、 予定していた「第1回サムソン県調査」のためのワーキングチーム会議を開催して、実施準備作業を開始した。また、同年12月、「生物製剤品質管理プロジェクト」の「アフターケア調査団」 として来土された山崎先生からも、現行の「感染症対策プロジェクト」について、保健省との協議も含めて、さらに強力にバックアップしていただいた。ありがたいことだった。
     翌年の2000年1月、プロジェクト基本計画PDMを再構築するため、「RSHC・PHC総局・専門家によるPCMワークショップ」が開催された。PHC総局からも 担当者が出席した。そして、このワークショップで、予想外のことが起きた。PHC総局側自身が自ら「このプロジェクトで利益を得るグループはPHC総局であること」を認めたのである。 換言すれば、「流行予測調査はPHC総局にとって必要だ」ということである。事態が一気に好転したのだ。
     しかし、実は、その兆しはすでに明確に現れていたことが、後になって、分かった。と言うのは、前年末のトルコ国会の予算委員会で、首相が「JICAプロジェクト はトルコにとって有益である」という主旨の答弁をしていたことが間もなく分かったからである。とすれば、PHC総局が前年秋に先の回答をしてきた頃には、PHC総局は、協力に向けて、 すでに態度を変えていたということになるのではないか!
     しかし、こういう兆しを掴み切れずに、この首相答弁より少し前の11月、PHC総局側に「日本で実施されている調査を実際に見て」理解してもらった方が 「百の説法」より早道ではないかと考え、PHC総局長とRSHC所長の日本研修(視察型)をJICA本部に打診した。研修(視察)機関の調整や彼らの日程調整などスムーズにいかなかった面もあったが、 幸い、12月末ぎりぎりに承詰された。そして、上記PCMワークショップの終わった翌月の2月、二人は本邦研修に出発したのである。この研修の効果は、その後の流行予測調査の展開に有為に 作用したことは勿論であった。
     このように、これまで打ってきたいろいろな手が、この時期を前後して、直接間接的に効いてきたようだった。そして、2000年3月、いよいよサムソン県で、 RSHCとPHC総局の連携協力の下、第1回目の流行予測調査・感受性調査が実施されたのだ。心配していた住民(都市部・農村部別、年齢別、男女別に乳児から老人まで)からの血液採取も、 サムソン県衛生研究所(RSHC支所)のC/P、県保健部と保健所のスタッフ合計29名の極めて用意周到な計画と連携で実施され、計画数を上回り、成功裏に終えることが出来た。 以前、私が勤めていた地研でも毎年この調査を行ってきたが、これほど見事にできたことは殆どなかったから、トルコ人の優秀さをかい間見た思いであった。RSHCに持ち帰った血清は 抗体検査と血清銀行の保存管理へと回されていったが、この調査でのもう1つの収穫は、この調査のために作成した調査方システム・方法が、細かな部分を手直しすれば、今後の調査に用い られることが分かったことである。方法論の大要が決まったのである。これに加えて、C/Pたちがこの調査の勘所をほぼ会得しつつあることだった。

    採血風景

      
    血清分離作業
    左端は宮村専門家
      
    RSHC感染症研究部の疫学室にて
    (左から白地、宮村両専門家とC/P)
  6. 流行予測調査の両輪が回って、最終ゴールヘ
     実験室内技術の移転は、プロジェクトスタート時から、いろいろな紆余曲折を経ながら、実験室の改修工事と機材の供与の進み具合に応じて、 一歩一歩進められていった。特に、感受性調査が動き出すと、次は病原体調査(感染源調査)体制の組み立てであるから、病原体の分離同定検査等に関する短期の専門家の先生方の派遣を相次いで要請した。その結果、この分野の技術移転が急速に加速していった。また、流行予測調査成績解析コンピュ一タープログラムも、段階毎に、確実に作成されていった。 勿論、この技術移転に際しても、様々な問題が起こり、その都度、専門家の先生方にいろいろなご苦労をおかけしてしまった。しかし、ともかく、先生方の大変なご尽力により、 日本から供与された結核部の高度安全実験室や各部の実験室のバイハザード対策も含めて、実験室内技術カが一段と改善されていった。このように本当に真摯にご尽力いただいた短期専門家 の方々の活動内容を1つ1つ詳しく紹介できないのは残念であるが、紙片の都合上、別の機会に譲らせていただきたい。ともかく、今もなお、それぞれの先生方に心からの御礼を申し上げたい 気持ちで一杯である。
     そして、2001年から、ジフテリアと麻疹の病原体調査が部分的にスタートした。そして、その年の12月、PHC総局、RSHC、RSHC支所、県保健部、保健所、 専門家(オブザーバーとして)が参加して、病原体サーベイランスシンポジウムがアンカラ市内のホテルで開催された。そして、患者発生通報、検査材料採取、病原体分離同定検査(PCR検査を含む)、 成績還元などが討議され、病原体調査システム・方法が出来上がっていった。流行予測調査の両輪が回り出したのである。
     一方、プロジェクトとしてかなりの力(機材、専門家、本邦研修)を投入した結果、2002年2月、RSHCウイルス部が「Polio National Laboratory」としてWH0から 承認された(なお、前年の11月、トルコ国内で3年間、ポリオが発生しなかったことを祝いセレモニーが大々的に開催された)。また、RSHC感染症研究部もEUから「ジフテリアの Regional Reference Laboratory の候補」に上げられた。このように、National Reference Laboratoryとして、RSHCに対する、国内のみならず、外国からの評価も高まってきた。さらに、このプロジェクト活動 に触発されて、保健省、RSHC、大学の3者が協力して、「感染症の診断体制(基準)」を作り上げたが、これもプロジェクト活動効果の1つと言えよう。このようにして、実験室内技術の強化、 流行予測調査技術の強化、RSHCPとPHC総局の技術連携協力の確立・促進、血清銀行の確立(前年までに研究所の地下に血清銀行室が作られ、感受性調査で採取された血清が逐次保管管理された) に向けたプロジェクト活動のすべてが動き出した。そして、2001年10月までに、計画された感受性調査の血液採取(サムソン、アンタルヤ、デイアルバクルの3県で2回ずつ実施)もすべて完了し、 抗体測定成績も順次作成されてPHC総局に報告されると共に、一部は、欧州感染症学会や日本の国立感染症研究所雑誌などに発表された。
     これらの成果を踏まえて、血清抗体検査技術マニュアル・病原体検査技術マニュアル、バイオハザード対策マニュアル、流行予測調査ガイドラインとマニュアル、 血清銀行ガイドラインとマニュアル、流行予測調査と血清銀行のためのコンピュータープログラムなどが逐次完成していった。
     そして、2002年1月、保健大臣と日本国大使のご臨席を得て、RSHCとプロジェクトが主催し、関連の大学、行政、研究所などから多数参加した「流行予測調査と 血清銀行に関するシンポジウム」がアンカラのヒルトンホテルで盛大に開催され、予想を上回る盛況下で、プロジェクトの成果とNational Reference LaboratoryとしてのRSHCの展望などが 熱く討議された。また、このために派遣された国立感染症研究所の岡部信彦先生と高橋元秀先生による、広い視野にたった流行予測調査と感染症サーベイランスに関する特別講演は聴衆に 大きなインパクトを与えた。数日後に開かれた慰労会に参加したC/Pたちは、未だ興奮冷めやらずの様相で、シンポジウムの成功をお互いに祝い合っていた。自分たちの力でやり通すことが 出来たという自信が彼らの顔を輝かせていた。これは嬉しいことだった。
     2002年5月、待ちに待った終了時評価調査団が来土した。妥当性、有効性、効率性、インパクト及び持続性の観点から、 プロジェクト計画に基づいて、二日間にわたり、プロジェクト成果が1つ1つ詳細にチェックされた。その結果、固唾をのんで待機していた私共に、「ほぼ完全に目標を達成した」旨の評価が 下された。また、トルコ側との合同評価会議(合同調整委員会)でも、同様の評価が行われ、合意署名された。さらに、日本の外部(有識者)評価チームからも「目標達成」の評価を得た。
      そして、9月23日、アンカラのホテルでプロジェクト終了式典が挙行され、保健大臣や日本国大使らから成功裏の完結に対する誠に嬉しい限りの祝辞が与えられた。だから、その後で 挨拶に壇上に立った私の膝は感激にがくがくと震えていた。また、かつて、プロジェクト当初、検定不合格ワクチン事件で極めて険悪且つ深刻な関係に陥った元RSHC所長も、全く予想外にも、 お祝いに駆けつけてくれた。今は大蔵省の予算担当という重要なポストについている彼と何のわだかまりもなく握手し、トルコ式に抱き合った時、これですべてのことが終わったのだと実感した。


    アンカラにある魚屋
  7. エピローグ
     私は、30数年間、地方の衛生研究所に務めていたが、片田舎では、JICA技術協カプロジェクトのような国際協力に接する機会は殆ど全くなかった。 だから、例えばR/DのようなJICA技術協カプロジェクト用語1つにしても、正に幼稚園年少組からのスタートであった。勿論、派遣前研修で色々なことを教わった。しかし、 いざ実戦の現場に立つと、リーダーという重責も加わって、戸惑うことが多く、己が力不足さ、経験不足さを痛切に感じた。
     それ故、プロジェクトがほぼ成功裏に終えることが出来た成因は、何と言っても、忍耐強く且つ懸命に努力を傾注された仲間の長期専門家や調整員の方々の プロジェクトにかける情熱とプロジェクト推進のための暖かいご協力、それぞれの専門分野の立場から極めて真摯に技術指導していただいた多くの短期専門家の方々の多大なご尽力とお力添え、 専門家派遣や研修を快く引き受けていただいた関係各機関の暖かいご支援とご協力、そして大谷、山崎両先生をはじめとする国内委員会の先生方の正鵠を得た、力強く且つ的確なご指導とご支援、 JICA本部担当部及びJICAトルコ事務所の温かく且つ深いご配慮と力強いバックアップなどであった。こうした多くの方々や関係機関の、様々な角度からの力の結集が、プロジェクトの成功へと 結実していったのである。この紙上をお借りして、改めて、衷心より厚くお礼を申し上げたい。誠にありがとうございました。
     そして、もう1つの成因は、C/Pの優秀さだった、と確信している。主要C/Pの大半は医師、しかも女医が多かった。それだけに、レベルも高く、また、向上心も強かった。 それが技術移転の効果に如実に反映していた。また、「我々がトルコのこれからの感染症サーベイランスを構築していくのだ、支えていくのだ」という意気込みと自信は誠に心強い限りであった。 それはまた、ある意味では、桁外れに強い自尊心の裏返しでもあった。さすがに、かつて中欧や中近東の一体を制覇したオスマン帝国の末裔である、と秘かに敬服していた。 そうした彼らにも、心からのお礼を申し上げたい。
     ー方、トルコヘの派遣が決まった時、相手側とは対等の立場(同じ目線)で相互理解、信頼、協力に徹しようと秘かに決めていたが、その考えは、プロジェクト活動を 進めていくに従って、確信へと変わっていった。日本をより良く正確に理解してもらい且つ信頼してもらうためには、このことを基調として、誠心誠意を示す。そうすれば、相手側も、 誠心誠意をもって応えてくれ、それが取りも直さず、プロジェクト活動の進捗に確実に反映することも改めて思い知った。だから、「俺たちはお前たちに技術を教えてやるためにやって来たのだ」 などという傲慢な態度は執るべき態度では絶対ないし、また、無秩序に相手側の言いなりになることも厳に避けなければならないことは言うまでもない。
     ともあれ、このプロジェクトの約5年に 近い年月における経験は、地研での30数年間に亙るそれよりも、はるかに密度の濃い、緊張感の張り詰めたものであった。それだけに、得るものや学ぶことが多かった。また、日常生活や プロジェクト活動や長い宗教休暇を利用しての旅行などを通して、トルコの様々な異文化や風土などに接することができたことも、大変ありがたく、興味深いことだったと思っている。 そして、それにも増して、多くの友人ができたことは大変嬉しいことであった。
     帰国後も、トルコの異文化に触れながら、友人との交流を続けたいと思い、アンタルヤの片隅に侘び住まいを設け、 年1〜2回訪れて、友人や土地の人達との交流を楽しんでいる。勿論、その都度、アンカラにも立ち寄り、かつてのC/Pたちからその後の進展などを聞くのを楽しみにしている。 最近はEUやWH0との感染症サーベイランスなどを発展させているようだ。National Reference Laboratoryとして、日本のプロジェクトが構築した土台をさらに発展させようとしている彼らの 努力をみていると、「少しでもお役に立ったと思っていただけたなら、これにすぐるものはないし、そういうプロジェクトに参加させていただいたことは本当に良かったなあ」などと、しみじみ思う。