![]() エンカルナシオン市のカルナバルの一景 |
1811年にスペインから独立したこの国は、現在立憲共和国で私共が在任中は親日家のストロエスネル氏が8期目(1期5年)
の大統領として政権を執っており政情は安定しておりました。 日本人のパラグアイへの移住は、1936年(昭和11年)に始まりましたが、第二次大戦で一時中断し、その後1959年(昭和34年) に移住協定が結ばれ、また1978年には日パ青年海外協力隊派遣協定が結ばれて今日に至っております。 本人は、パラグアイ南東部イタプア及びアルトパラナ県を中心に6移住地に約7,500人が移住して、農業を主体に営々として活動 しており、その成果として、これまで輸入していた小麦の国内自給を初め、大豆の飛躍的増産で外貨を獲得し、また野菜の供給によって国民の栄養改善に資する等、 この国の振興に大いに寄与していることは高く評価されております。 |
私共が従事した南部パラグアイ農林業開発プロジェクトの拠点は、イタプア県にあり、県都エンカルナシオン市から国道6号を
アルトパラナ県に向かう沿線上に、農業試験場の強化を図るために設置されたCRIA、農業機械化訓練センターのCEMA及び林業開発訓練センターのCEDEFOの
3施設が20〜60kmを隔てて配置され、殆どの専門家はエンカルナシオン市から通勤しておりました。 その途中で国道を横断する放牧牛・馬の集団に通行を妨害され、時には脱柵した牛と衝突事故を起こした人もあったと聞きます。 野草放牧牛の肉の硬さと味は今でも脳裏に残っています。猛々たる赤い土煙をあげて調査や視察に行ったピラポ移住地の大豆や小麦の広大なほ場は、 今はさらに栽培面積が拡大して播種や収穫期にはライトを付けたトラックの作業音が轟いていることでしょう。それにつけても、様々な苦労を経て最初に移住地 となったラ・コルメナのブドウ、スモモ、ポンカン等の果物や野菜類は、今も着実な生産が挙げられていることと思います。 |
![]() CRIAの開場記念日の一コマ |
帰国後はや17年、昨年帰任されたCRIAのリーダーからお便りを頂き、私共が育成に努めた大豆新品種が4つも発表され、
その中の1つAuroraは、豆腐への加工適性が高く、パラグアイの日系農協と日本の豆腐業者との特約栽培が実現したとあり誠に嬉しいことです。 思い出は尽きませんが、日系人を含むパラグアイの人々が、良い意味でのアスタ・マニヤーナとアミーゴ意識を高揚して豊かに 生きられることを衷心から祈念します。 なお、私共が在任中、色々とお世話さまになり、仲良く交流し合った3センターの派遣専門家とJICAアスンシオン 事務所やエンカルナシオン支所のOB関係者で「ハカランダの会」と称する親睦会を結成して、数年前から一年に1回は各地でお会いしておりますが、 今年は八幡平で10月11日に会合することとなっており、再会を楽しみにしています。 |
![]() CRIA大豆試験ほ場の一景 |