パラグアイの思い出

宮原 萬芳(1984年6月〜1987年3月在勤)


 私は農林水産省東北農業試験場に在職中、再三海外技術協力のお誘いがありましたが、各種の都合で応諾できないでおりました。 当時はまだ定年制度はなかったので、不文律で満61歳の前日に退職し、少し身辺の整理などしなければと思っていた矢先に、本省の人事担当官から電話があり、 「何はともあれ、これまで習得した技能を海外技術協力に生かして欲しい」との要請で、約1と月の研修後、昭和59年6月1日以降、初めて日本から最も遠い 任地の一つとされる国に旅立ちました。成田から機中で隣席の韓国の老婦人に「パラグアイの冬は日中は最夏です」と言われた言葉が今でも耳に残っていますが、 このことは後で成程と理解されました。パラグアイは南アメリカ大陸のやや南寄りに位置し、北はボリヴィア、東はブラジル、南と西はアルゼンチンに接する 内陸国で、西経54度45分〜63度27分、南緯17度56分〜27度30分にあります。国土面積は40万平方km強で、日本より約1割大きく、国内を北から南に流れる パラグアイ河によって東西に二分されています。東パラグアイは国土の約40%で、森林の多い丘陵地帯(最高海抜70m)と平原(最低60m)が入り交じり変化に 富んだ地形です。西パラグアイは国土の約60%を占め、大平原のスペイン語“チャコ”と呼ばれ、地勢は平坦で草原及び灌木地帯が中心になっています。 パラグアイは位置的には亜熱帯に属していますが、大陸内部にあるため、気候は大陸的で日中と夜間の温度差が大きく、また年間の気候変動が大きいのです。 首都アスンシオン市での年平均気温は23.4℃ですが、夏期は40℃を越す日もあり、冬季の6〜8月は地域によって明け方、氷点下を記録することもあります。


エンカルナシオン市のカルナバルの一景
 1811年にスペインから独立したこの国は、現在立憲共和国で私共が在任中は親日家のストロエスネル氏が8期目(1期5年) の大統領として政権を執っており政情は安定しておりました。
 日本人のパラグアイへの移住は、1936年(昭和11年)に始まりましたが、第二次大戦で一時中断し、その後1959年(昭和34年) に移住協定が結ばれ、また1978年には日パ青年海外協力隊派遣協定が結ばれて今日に至っております。  本人は、パラグアイ南東部イタプア及びアルトパラナ県を中心に6移住地に約7,500人が移住して、農業を主体に営々として活動 しており、その成果として、これまで輸入していた小麦の国内自給を初め、大豆の飛躍的増産で外貨を獲得し、また野菜の供給によって国民の栄養改善に資する等、 この国の振興に大いに寄与していることは高く評価されております。

 在任中の1986年(昭和61年)には、日本人のパラグアイ移住50周年祭が首都アスンシオン市 で行われ、日本からは常陸宮御夫妻をお迎えして盛大な祝典が催され、私共派遣専門家もそれに出席する機会を得ました。その時のアルフレッド・ストロエスネル 大統領のメッセージの中に「日本人移住者は非常に誠実で勤勉であり、わが国の法律や伝統を良く重んじる模範的な人々です。それ故にわが政府や国民は、 日本の皇室、政府、国民の皆さんに心から敬愛の意を表します。」とあったことや祝賀行事の一環として行われた移住地からの農産物展示品評会に汗を流した ことが懐かしく思い出されます。

 私共が従事した南部パラグアイ農林業開発プロジェクトの拠点は、イタプア県にあり、県都エンカルナシオン市から国道6号を アルトパラナ県に向かう沿線上に、農業試験場の強化を図るために設置されたCRIA、農業機械化訓練センターのCEMA及び林業開発訓練センターのCEDEFOの 3施設が20〜60kmを隔てて配置され、殆どの専門家はエンカルナシオン市から通勤しておりました。
 その途中で国道を横断する放牧牛・馬の集団に通行を妨害され、時には脱柵した牛と衝突事故を起こした人もあったと聞きます。 野草放牧牛の肉の硬さと味は今でも脳裏に残っています。猛々たる赤い土煙をあげて調査や視察に行ったピラポ移住地の大豆や小麦の広大なほ場は、 今はさらに栽培面積が拡大して播種や収穫期にはライトを付けたトラックの作業音が轟いていることでしょう。それにつけても、様々な苦労を経て最初に移住地 となったラ・コルメナのブドウ、スモモ、ポンカン等の果物や野菜類は、今も着実な生産が挙げられていることと思います。

CRIAの開場記念日の一コマ

 在勤期間も半ばを過ぎたある夏、我々プロジェクトの仲間がパラグアイ農牧省の林野庁長官の案内で、ボリヴィアの国境に近い チャコの開発現場に行った時、長官が「日本の専門家の皆さん、ここ1区画(4,000 ha)を4千ドルで払い下げますが如何ですか」と言われて、 その大様さに驚かされました。
 在任中、隣国のブラジル及びアルゼンチンには、試験研究の打ち合わせや視察をかねてカウンターパートと一緒に出張しましたが、 両国に派遣された専門家が立派な業績を挙げている状況を見聞して、大変気を強くしました。ブラジルのロンドリーナ市は人口50万人、その1割は日系人で、 最初の移住地とあってその雰囲気を感じると共に、開拓記念館と周辺建物には、苦闘の後を偲ぶのに十分でした。北隣のボリヴィアには同僚の千葉専門家が 同国の沖縄移住地の土壌調査を依頼されたのに同行して、私はサンファン地区移住地の大豆の冬栽培なるものを調査して、成程良い慣行法だから今後も是非続 けて種子の供給を沖縄移住地にされるよう勧奨しました。原油の自噴で燃え上がる荒野に野生のダチョウが餌をあさっている状景は印象的でした。
 パラグアイには周辺諸国に比べて観光地は少ないが、ブラジル、アルゼンチンに接したイグアスの滝、近くに完工間近いイタイプダム 及びアルゼンチンと共同建設中のヤシレタダムが完工すれば、パラグアイの産業経済の発展に果たす効果は絶大なものとなるでしょう。

 帰国後はや17年、昨年帰任されたCRIAのリーダーからお便りを頂き、私共が育成に努めた大豆新品種が4つも発表され、 その中の1つAuroraは、豆腐への加工適性が高く、パラグアイの日系農協と日本の豆腐業者との特約栽培が実現したとあり誠に嬉しいことです。
 思い出は尽きませんが、日系人を含むパラグアイの人々が、良い意味でのアスタ・マニヤーナとアミーゴ意識を高揚して豊かに 生きられることを衷心から祈念します。
 なお、私共が在任中、色々とお世話さまになり、仲良く交流し合った3センターの派遣専門家とJICAアスンシオン 事務所やエンカルナシオン支所のOB関係者で「ハカランダの会」と称する親睦会を結成して、数年前から一年に1回は各地でお会いしておりますが、 今年は八幡平で10月11日に会合することとなっており、再会を楽しみにしています。

CRIA大豆試験ほ場の一景

JICA帰国専門家秋田連絡会会報ー12周年記念特別号ー(2004年)から