サウディアラビア王国派遣記

佐々木 久尚(西目町在住)


1.サウディアラビア王国の首都リヤド市へ派遣された経緯

 わが国にとって世界最大の産油国であるサウディアラビアから、原油の安定供給を図ることは不可欠のことでした。 一方サウディアラビア王国は最先端技術としてFAやNC工作機械、マシニングセンターなどの導入のため、熟練した技術者の需要が急がれました。又、オーディオや通信など エレクトロニクス分野における中堅技術者の要請の必要性が生じておりました。当時日本は工業の分野で世界最高のレベルにあり、優れた中堅技術者が日本に大勢いることに サウディアラビアが注目し、人材の養成が絶対であると認識し、「日本式教育を取り入れた工業高校」の設立を要請してきました。
 わが国の三木武夫総理大臣とサウディアラビア王国のファイサル国王との間で、昭和49年6月12日に生まれた国家プロジェクトです。 外務省、文部省、JICAが主となり国内委員会が設置され、中堅技術者養成のための学校設立プロジェクトがスタートしたのですが、中断の時期がかなりありました。 何としても実現させたいと両国が交渉を重ね、ようやく動き出したのです。

 設置するのは、「自動制御」「工業電子」「電気通信」「コンピュータ技術」「オーディオ・ビデオ」の5学科です。この工業高校設立のため、 サウディアラビア王国は250億円をつぎ込みました。当時日本国内で工業高校を造るには10億円もかからない頃でした。
 私の任務は、一般教養科目としての化学について、詳細カリキュラムの作成、実験書の作成、実験に必要な器具や薬品の準備、現場の化学の先生達への指導です。
 サウディアラビアは観光ビザを出さない国です。JICAの方に「入国許可を得るのに半年かかった」と言われました。
 平成3年、湾岸戦争(1991年1月17日~3月3日)が終った9ヵ月後、私一人で成田を出発し、バンコク空港で乗り換えリヤドに向いました。 その飛行機は年に数回しか飛ばないというワーカー(出稼ぎ労働者)を運ぶ便で、平常の運賃の50分の1でした。

2.サウディアラビア王国

 世界地図を見ると、アフリカ大陸の右側に長靴の形をしたアラビア半島があります。東はペルシャ湾(アラビア湾)、西は紅海、南はアラビア海に面しています。 サウディアラビアはその半島の80%以上を占め、面積は日本の6倍近くあります。国土の95%が土、砂、石、岩からなる砂漠です。砂の砂漠は40%に過ぎません。川は一つもありません。

 サウディアラビアという国名は、「サウド家のアラビア」という意味です。第一次世界大戦後の1932年に国名を現在にし、部族を統一した アブドゥル・アジーズが初代国王になり、36人の王子を含む58人の子供に恵まれました。歴代の国王は息子達です。第2代国王サウード、第3代ファイサル、第4代ハーリド、 第5代(現在)ファハドです。皇太子のアブドッラーがいずれ第6代国王になりますが、皇太子は現国王の2歳下の弟で、西暦1923年生まれなので年齢が気になるところです。

 国旗(写真左)の緑色は、植物が育つ草原をイメージしており、その中心にはアラビア語で「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」 と右側から左側に書かれています。その下の剣は悪に屈しない正義を表わしています。国旗にこれだけたくさんの文字が書かれているのは珍しいです。旗全体でイスラム、正義、繁栄を表わし ています。
 又、サウド家のシンボル(写真右)は、ナツメヤシの木と正義を表わす剣をデザインしたもの。ナツメヤシの木はサウディアラビアの繁栄のシンボルです。 ナツメヤシの実はデーツといい砂漠の民(ベドウィン)にとっては、保存がきき栄養があり大切な食べ物です。私も時々食べましたがとっても甘く干し柿のようでした。
 イスラムの聖地マッカ(メッカ)をもつこの国は、アラブ諸国の中でも最も伝統を重んじるスンニ派のワッハーブ派に属し、戒律を厳格に守っています。

3.リヤド市での生活

 首都のリヤド市は洗練された大都会でした。人口は1970年代が70万人、1984年は180万人、1992年は230万人で、人口の伸び率がすごいです。
 写真は市街地の風景です。毎日この道路を通ってサウディ国の文部省職業訓練庁を往復しました。円錐形の塔はペルシャ湾の海水を淡水化しこの水道塔に送り、 その水を生活用水として使用しています。塔の最上階はレストランです。飲み水はペットボトルで買いました。 1.5リッター43円でした。ちなみにガソリン1リッターは18円です。街路樹の世話は水やり専門のワーカーが行います。とても砂漠のど真ん中とは思えません。

 写真右は内務省(日本でいえば総務省)で、日本では考えられない建て方です。
 道路は本線が片側4車線に側道2車線が付いており、市内でも高速で走っていました。車は9割以上が日本車でした。修理工場は一箇所に集中して設けられており、世界のどの車種でも 修理が可能です。ただし西欧人や日本人は一人もおりません。
 お正月に日本大使館で日本人だけのお祝いをしました。リヤド市に住む日本人が全員(大使館員、JICA職員、技術協力者、その家族)集まりましたが20数人でした。

 サウディ国は陰暦を採用していますので毎年11日ずつ早くなります。その日(1992年1月1日)はイスラム暦では6月26日でした。 陰暦は月の運行がすぐ分かります。金曜日が西欧社会の日曜日に相当し休日になります。

 期間中私は写真のアルコザマホテル514号室(6階)で生活しました。アルは定冠詞で、英語のtheに相当し、 コザマはラベンダーです。仕事が終わりホテルでキーを受け取ると、私の手からいつもバシッという音を発します。空気が乾燥し静電気が発生したためです。 車のノブ(とっ手)でもしょっちゅう起きました。
 この国には住所がありません。ホテルに手紙を出す場合、オレイヤ通りのアルコザマホテルで届きます。郵便物は治安維持のため開封される 時があるようです。治安維持といえば、市内には水色のパトカー(ムタワという宗教警察)が走っています。

 イスラムには5つの義務「信仰の告白」「礼拝」「喜捨」「断食」「巡礼」があります。礼拝は一日5回行われます。モスクのミナレットから 荘厳な響きが伝わると、皆お祈りに入ります。ちなみにイスラムとは「平和の宗教」という意味で、人間の平等を主張し人種や言語による差別を嫌い、信者は現在もどんどん 世界に広まっているそうです。
 お酒を飲む、豚肉を食べるなどが禁止されています。お酒を飲むと投獄され、金曜日の午後80回のムチ打ちが公開でなされます。

 金曜日にはスーク(市場)によく行きました。金スーク(写真左)に行くとまばゆい光がきらめきます。デザインや形に関係なく グラムいくらの単位で売っておりました。又、赤い砂漠(写真右)で過ごしたり、3000年前の壁画を探検したりしました。


 リヤド工業高校の電気科2年生の生徒達(写真左)です。皆ヒゲをはやしています。15歳になるとヒゲを剃らないそうです。 ヒゲがないと一人前に扱ってもらえないらしいです。生徒は全て自分の乗用車で通学でした。
 学年進級する際、学校側は一割の落第者を見込んで机の数を減らしますので、皆真剣に勉強しています。尚、6歳から男女別々の教育になります。

 私も試しに現地の服装(写真右)を着てみました。頭にかぶる頭巾には紅白まだら模様のシュマーグ、白いのがゴトラ、アラファト議長がかぶっている白黒 まだら模様の3種類があるそうです。頭上の二重の黒い輪はアガール、ガウンのようなのをトーブ、ずぼんはスルワールといいます。女性の服装は黒一色です。スカーフをヒェジャーブ、 顔を隠す頭巾はゴトワ、ガウンはアバーヤといい、全身を隠せば隠すほど尊いそうです。

 女性の行動はかなり制約があります。スポーツ、一人の外出、車の運転など全て禁止です。女性を守るためと思いますが、これではすごく気の毒な 感じがしました。

 国によって対応の仕方が違います。次のような例を紹介されました。「お皿を割ってしまった場合」、日本人は「誠にすみません」と謝ります。 フランス人は「イタリアの皿ならもっと丈夫だ」と言い訳します。アラブ人は「この皿は割れる運命にあった」と言うそうです。自分の過失を素直に認めるのは、世界の中で異民族 の侵略を受けたことのない、日本とエスキモー人、ニューギニアのモニ族だけと、新聞記者の本多勝一氏は著書に書いています。

 あいさつは必ず「アッサラーム・アレイクム」「ワ・アレイクム・アッサラーム」から始まります。「あなたに平和を」「あなたにこそ平和を」という意味です。 その他に「ブクラ・インシャ・アッラー(明日の事は神でもわからない)」「シュクラン(ありがとう)」などをよく耳にしました。

 リヤドでは仕事を含め楽しい毎日でした。夜は見事な星々に包まれ、特に秋田では緯度の関係で観測不可能な、シリウスに次いで明るいカノープスを見る ことができ、天国か極楽にいるような感じでした。又、帰国途中にJICAはご苦労さんの意味でパリ旅行をさせてくれ、本当に素晴らしい体験ができました。
 文部省の岩本宗治氏、チーフアドバイザー大島正弘氏、通訳の石垣滋樹氏、物理の岡野敬徳氏に大変お世話になり感謝申し上げます。


4.その後

 写真上は、リヤド電子技術学院は総大理石造りです。右がモスク、塔のようなのが王様専用のテレベータです。手前の芝生は専任の職人が世話します。
 学校には教室、実習室、体育館、図書館の他に、モスク、講堂、放送局、食堂、現地の校長と外国人校長室の応接屋とキッチン、会議室、教員家族の宿舎、 サッカー場、発電施設などが設置されております。

 平成5年9月、ついに「リヤド電子技術学院」が開校しました。実に19年もかかった国家プロジェクトが実現したのです。完成を祝う習慣がないサウディ国でしたが、 両国の更なる緊密な関係を願い、平成6年11月、日本を代表して皇太子ご夫妻が招待されました。その後、あまりにも素晴らしい施設・設備と授業内容のため、短期大学に昇格したと 聞いております。

JICA帰国専門家秋田連絡会会報ー12周年記念特別号ー(2004年)から