現在エクアドルに在住の天野保二氏は、平成元年3月まで秋田大学医学部機器センターの助教授をされ、 在職中にJICAの事業にて何度かエクアドルで医療援助を行っていたが、退官後も引きつづきエクアドルで援助活動をなされている。 エクアドルの状況や援助活動について原稿をお願いしたところ快くお引き受けいただいたのでここに掲載させていただく。 写真は氏がいる研究所で写したものである。


エクアドル共和国との30年


元JICA専門家 天 野 保 二

1976年は野口英世生誕100年に当たりました。 野口がエクアドルで活動した最初の日本人科学者であることにあやかって、 日本・エクアドル間に医療技術協力「伝染病研究対策」を実施することになりました。
実施計画は、1977年、日本側代表東北大学の石田教授(当時、医学部、細菌学の主任教授)と、エクアドル側は 国立衛生研究所Dr. Francisco Para G. (当時の所長)との間で協議、調印されました。 計画は1977年から実施されたことになりますが、 実際には、その年の10月、私外1名が派遣されて協力実施の具体策を決めたにとどまりました。
当時、私は秋田大に席を置きましたが、主として、電子顕微鏡関係の仕事で石田教授のお手伝いをするために参加したのでした。  結果的には、協力期間の延長(1982年)、追加支援(1989年)など、計画全般に関わることになりました。 
秋田大を退官した後、1998年には、ODAによる、衛生研究所全体の設備改善を行いましたが、その申請から、 機器の設置までには4年を要しました。 私はその頃から、グアヤキルに滞在しながら機器類の保守や助言などに携わり、今日に及んだことになります。
日本国民の貴重な税金をつぎ込んだ援助も、相手国担当者の無知や不注意、無関心などから、高価な機材も十分利用されずに 放置される例が多くあると聞きます。 幾分でも、そのような事を防ぎ、利用や保守の手助けをすることと、細々とでも自分の好きな研究を続けることの 出来ることを、日々の喜びとしています。 それも、1980年代に、時の所長から「パーマネント・アドバイサー」という称号を貰っていましたので、 所長が変わろうと、大臣が変わろうと、私が、ここで何がしかの仕事を続けることに支障はないのです。

私が始めてこの国へ来た、1977年は、まだ、軍政の行われている時代でしたが、現在と比べたら、 社会全体がすこぶる平和でした。 街にはコソドロがいるから、良く注意するよう言われたものですが、凶悪犯の話などは全くありませんでした。
1980年代の半ばには、時間をやりくりして、エクアドルの風土病、バルトネラ症の疫学調査のために全国をめぐりましたが、 強盗に出会う心配など全くありませんでした。
ところが、最近では、新聞に殺人のニュースの出ない日はないと言っても過言ではありません。  コロンビアの反政府ゲリラは有名ですが、ここ数年、エクアドル国境沿いにも出没するようで、中には、エクアドル領内でコカの精製をしていたなどとの 報道も聞かれます。 さらには、エクアドルが武器弾薬の補給基地になっている疑いすらもたれていて、 最近も、大量の弾薬を携行した2人のコロンビア人 が国境検問で逮捕されたというニュースがあったばかりです。 何しろ、エクアドルとコロンビアは旧「大コロンビア」(ヴェネズエラを含めて)として、 独立した仲ですから、今でも、お互いに、パスポート無しに出入り出来ます。 ゲリラも平服を着ていれば、自由に往来できます。  よほどの大物ででも無ければ、検挙される心配などありえないでしょう。 エクアドル側では、凶悪犯の多くはコロンビア人だとの噂もささやかれています。  エクアドルの国境警備は強化されているものと考えていましたが、ここにも、分かりにくいことが起こります。 コロンビア軍の飛行機がエクアドル領内から 攻撃を受けたといいますと、エクアドル側ではコロンビア軍機が領空を侵犯したといって、大使召還などの強行姿勢をとったりしますから、話は面倒です。

犯罪といえば、白昼、ガードマンのいる銀行を襲う例が多くあります。 最近の例では、ダイナースクラブの事務所を、 午後4時頃に襲った強盗団がありました。 このときばかりは、そのうちの3人が捕まったといいますから、警察の大手柄だったのでしょう。
エクアドルには、国家警察と呼ばれるものがあり、治安や入国管理などを司っています。 見たところ、軍隊と同じで、 ゼネラル以下の階級があります。 日本の「交番」に相当するPAI(「即時に対応する警察」とでも訳せば分かりやすい)と呼ばれる組織がありますが、 市民に言わせると、そこに勤務している警官はテレビばかり見ている、と言って、余り信用していないようです。
私の住むグアヤ・プロビンス(県)には交通警察というのもあって、交通全般、運転免許、車検などを担当しています。  以前は、その警官達が「小使い稼ぎ」をしているというのが、もっぱらの噂でしたが、近頃は自粛しているようだとも聞きます。
犯罪の増加に歯止めがかからないことに業を煮やした市長は、メトロポリタン・ポリスと称する市独自の組織を作りました。  私の住む市の中心部の街角に立っていますので、多少は治安の改善に効果があるかもしれません。
そのほかに、民間の警備会社と市が協定を結び、その警備員を市内の要所に配置して、国家警察の不備を補うということも行われ ていますが、その勤務の様子からは緊張感を感じられません。 さらに、市の治安対策にはTVカメラの設置があります。 市内の300箇所以上に監視カメラ があるといいますが、そこで録画した映像を、治安の改善に利用したことは無いと言うのが実態のようです。
この国では、何事かをはじめるときには、新しい組織を作るのが常識になっているようです。  屋上屋的に、積み木のように組織を付け足しているようにも見え、それらが有機的に、能率よく機能するのは極めて困難なことに見えます。  組織が複雑になるほど、統制が取れなくなるのではないでしょうか。
内閣でも、次々に、「大臣相当」の役職が作られます。 それだけ、人件費が嵩み、行政の停滞も起こりがちでしょう。  現政府の大臣を含む高級官僚は、月平均30人程が交代しているといいますから、行政がまともに遂行されるはずが無いと思われます。
治安問題の根本のところには、司法制度の不備もありそうです。 それなのに、人権尊重などと高尚な法律も存在するようですから、 問題は複雑です。 例えば、司法手続きに時間を浪費して、未決拘留が長くなると、容疑者を無罪釈放しなければならないなどということもあるのです。

最近の新聞には、エクアドルの駐スペイン大使が、スペイン政府に対して、エクアドル共和国の司法制度の改革と教育についての 援助を要請した、との記事がありました。 他国の援助がないとどうにもならぬところまで退廃、混乱しているということでしょう。
ここ、10年ほどの間、大統領が無事に任期を終え、元大統領として国民から敬愛されている例は無いのです。  4人の大統領と1人の副大統領が亡命し、選挙で正式に当選し、任期を満了した大統領は一人もいないのです。  こう数え上げてみると、この国にまともなデモクラシーが根付いているとは受け取れません。
身近なところで、私のいる研究所で起こっている話。 ここには、専門職としての医者、獣医師、薬剤師などが勤務していますが、 そのうちの医者は特別の給料を受けています。 それでも、尚、高い給料を要求したところ、当局からの回答は極めて簡単なもので、「勤務時間を短縮する」、 という解決策なのです。 専門職は6時間勤務ですが、医者の勤務時間を4時間に短縮したのです。 給料が少ないなら、仕事をしなくてよい、というのでしょう。  運転手や雑役などに従事する職員は労働組合を結成していて、その地位は厳格に守られています。 電顕ラボには、どういう訳か、3人の中年婦人が配置されて いますが、そのどれもが、頻繁に病欠、事故欠しますが、年次休暇も100パーセントとります。 所長は、人事管理を強化すると言うのですが、現実には放任さ れたままです。  このような状況は、この国の公務員全般に通ずるもののようですから、税金を払う方の庶民の浮かぶ瀬はありません。
私が始めて、この国を訪れた際、当時のS大使からうかがった「とても現代国家とは呼べる状態では無いのです」という言葉を、 それから、ほぼ30年経った今、改めて思い出します。
世話になっているエクアドルの欠点だけをあげつらいましたが、ここには、日本でも見習ってもらいたい立派な法律もあるのです。  この国の社会保障制度はひどいものですが、国の財政とはかかわりなく老人福祉を行う名案です。 この国では、65歳になると、この国で営業する交通機関、 公共機関などを半額で利用することが出来るのです。 私はこの特権を利用して、グアヤキルからアムステルダム乗り継ぎ成田まで、KLMのビジネスクラスの 航空券を50%オフで利用していますが、アメリカ経由のような煩雑さがありません。 

小泉首相がアフリカに「野口賞」を設立することを表明したとのニュースを見ましたが、野口英世がアフリカで死んだ事件の発端は、 ここ、エクアドルのグアヤキルにあったことはよく知られていると思います。 が、それに付随して、誤った伝説が流布されてきました。  野口の死後80年になろうとしている今にいたっても、なお、その誤りを糊塗しようという動きがあるのです。
野口は、1918年にこの国へ来て、黄熱病の研究をしました。 数週間滞在する間に「黄熱病の病原体 レプトスピラ・イクテロイデスを発見して、直ちにワクチン(あるいは、血清)を作り、多くの命を救った」偉人として、一般の伝記は伝えています。  2年ほど前、日本のノンフィクションライターと自称するY女史に会いましたが、彼女は、Doctor Hideyo Noguchi というスペイン語の本を書き、 それをエクアドルで出版させました。日本の青年協力隊の諸君が、 その本を使って、エクアドルの子供たちに、野口の偉大さを教えていたのです。 小学校で働く数名の青年協力隊員に偶然会った際に、 このことが話題に上りましたが、彼らが野口を黄熱病病原体の真の発見者と信じていたことに、私の方が驚かされました。
黄熱病の病原が「ウイルス」であると証明されたのは1900年のことで、文献としての発表は1902年です。  それから16年経った、1918年に、野口は「黄疸出血性レプトスピラ病」の病原体と酷似しているレプトスピラを分離して、 黄熱病の病原体であると主張して「レプトスピラ・イクテロイデス」と命名したのです。 彼は、その頃発展しつつあったウイルス学に全く関心を持 っていなかったか、全く理解できなかったものと想像する外ありません。 野口には250篇ほどの研究論文があると言われますが、そのほぼ半分に当たる、 黄熱病、小児麻痺、トラコーマ、梅毒スピロヘータの培養などの論文は、彼の誤った主張に基づいたもので、科学的価値はないのです。
余人ならば、誤った論文を乱発すれば、科学者としての信頼を失いますが、野口の場合だけは偉人であり、 英雄として語り継がれ、外国にまで喧伝されているのはなぜでしょう。
野口を偉大なる科学者と呼ぶことに最大の譲歩をしたとしても、黄熱病の研究をもって彼の最大の功績と呼ぶことには 大変な欺瞞があるというべきです。 又、貧困に生まれたとか、研究対象の病気に感染して死亡した悲劇などということは、科学者を評価する基準 にすべきではないのです。

私の近況としては、デング出血熱で死亡した患者からの組織の観察を手伝うほかに、この国に蔓延しつつある植物ウイルス の検索を手伝っています。 主要作物のイネ、トウモロコシ、サトウキビ、パパイヤなどに広くウイルス感染のあることを確認しましたが、政府には何 の対策も無いようで、この国の農業の将来が思いやられます。

エクアドルの全般、及びエクアドルでの野口に関しては、昨年出版された「寿里順平著 エクアドル、ガラパゴス・ ノグチ・パナマ帽の国」(東洋書店)が詳細を伝えています。