スイスにおける医学生物学研究と動物福祉規則
スイスの動物保護法は1973年に導入された憲法の条文に基づいている。この憲法では動物の福祉に関しては連邦も大いに関心を持っていると述べられている。この条文をもとに,1978年にFederal Act on Animal Protection (動物保護法)が作られた。動物実験に関する章もその中に含まれている。ところで,この動物保護法は動物実験を原則として禁止していないという理由から動物保護団体はこの法律に対して国民投票を要求した。しかし,1978年12月に行われた国民投票では,動物保護団体の主張は否決された。そして1981年に動物保護法が実施された。その実施要領に関しては1981年に制定されたAnimal Protection Ordinance(動物保護条令)に記された。
それ以来,スイス国民は動物保護団体の提案により,動物実験に関する国民投票を3回行っている。そのうちの2回は70%以上の反対に合い動物保護団体の主張は退けられた。スイス国民投票の歴史からいってもこのような大差は珍しいものであった。しかし,穏健派とされるスイス動物福祉協会が,特別な例外を除いて,痛みを伴う実験の禁止を要求する提案を出した。1992年の国民投票の結果,その提案に反対する者はわずかに過半数を上回る56%であった。この国民投票をめぐり国民と議会で論議が重ねられているが,医学生物学の研究に厳しい制限を加えるような提案が今後受け入れられる可能性がなきにしもあらずという状態である。そこで議会は1981年の動物保護条令を修正することを決めた。新たに修正された規則では痛みを伴う動物実験の全面禁止という要求を除いて,動物福祉協会の要求の幾つかを受け入れた。そして当局によって発行される免許に対して動物福祉組織が異議を申し立てる権利を受け入れた。この修正は科学学会からも製薬企業からも反対がなかったので1991年に施行された。
したがって,スイスにおける現在の動物実験に関する規制は1987年の動物保護法と1981年と1991年の動物保護条令に基づいている。さらに,法的拘束力をもった幾つかの指針があり,それには免許に関する詳細,ケージの要求事項,記録に関する事項などが記載されている。この連邦法の実施は州の当局に委譲されており,その実施状況は州によってある程度の違いが見られる。実験のための動物の使用は,いかなる場合も州の当局(一般に州の獣医部)に報告されなければならない。動物実験とは科学的仮説を立証するために生きた動物が使われるあらゆる方法と定義される。また,行動研究における動物の使用,そして動物から具体的な情報を得ることや,動物に対する化合物の効果を確認する事なども含まれる。動物に苦痛や極度の不安をもたらす実験あるいは全身状態を極度に悪化させる実験を行うときには免許が必要である。そのような免許は法律で定められている安全性試験を行う際にも必要である。免許は2年毎に更新しなければならない。単に動物を殺す場合や全身麻酔下に速やかに放血ト殺する実験,あるいは前処置や全身麻酔することなしで,動物から体液を採取できる場合,また単なる観察や給餌試験を行う場合であっても当局に通知しなければならない。
免許は次の目的のときにのみ発行される。
- 基礎的科学研究
- 化合物,血清,ワクチンの製造
- 機能と状態の生理学的,病理学的研究
- 大学での教育
- ある種の専門家(例えば実験技術者)の養成
許可された動物実験は所定の条件を満たしている職員が配置され,使用する動物を収容する設備のある研究機関や実験室でのみ行われる。そして必要な資格と訓練を受け,実際の経験を積んだ職員の監督下でなければ行うことはできない。免許は大学で生物学,医学あるいは獣医学の課程を修めた研究者,またはそれに相当する科学分野で動物実験に関して3年以上の経験を有する研究者に与えられる。
研究者は使用する動物の特性や病気そして実験への使用方法にも精通していなければならない。そして適切な飼養ができるようにしておかなければならない。そのため,一般に最初の申請時には履歴書が要求される。実験に関する詳細な報告書を作り,少なくとも3年間は保管しなければならない。
申請書は一般に州の獣医部に提出される。獣医部は科学的専門家と動物福祉家からなる独立した権限を有する委員会のアドバイスをもとに申請書を許可する。
申請は次の条件を満たすことにより許可される。
- 実験目的が法で許された範囲内であること
- 実験方法が結果を得るために適切なものであること
- 動物種をできるだけ下等なものとし,その数を減らす努力をしていること
- 収容施設,動物の入手先,研究者の資格が法の要求事項を満たしていること
以下のような場合には許可は与えられない。
- 動物実験以外に,他の有効な方法がある場合
- ヒトや動物の生命を救ったり,健康の増進と無関係な場合
- 基礎生物学において新知見が得られるとは思えない場合
- 化合物の試験において,既知の情報があるとき,あるいは既に他の研究者が行っている場合
- 実験により得られる知識が動物が被る痛みやダメージに見合わない場合
申請者も連邦の獣医部も州当局(州の獣医部)の決定に対して異議を申し立てることができる。連邦獣医部が異議を申し立てることができるようになったのは1991年からで,その理由は動物福祉団体が異議申し立ての権利を有することの代わりとしてであった。そのことは州の間で生じる相違を減らすことに役立っている。
免許は最長2年まで有効であるが,それを過ぎると更新が必要である。申請時の動物数を超過した場合も更新が必要である。
スイスで動物福祉規則が設けられて既に20年を過ぎたが,振り返ってみても動物福祉団体の活動や動物福祉規則によって大学や製薬企業での医学生物学の研究が大幅に遅れをとったとか,医学生物学分野で働いている人が大きな支障を来したとかいうことはない。わずかな例としては,幾つかの州において申請手続きが面倒で時間がかかるという理由から,研究の場が国外に移ったことはある。
毎年使われる動物の使用数は1977年当時に比べて75%以上,1983年当時に比べると60%以上も減少した。これは主に製薬企業が使用する動物数が減少したことが原因である(製薬企業が使う動物の数はスイス全体で使われる数の約75%に当たる)。製薬企業では薬のメカニズムをスクリーニングし,明らかにする方法をin vitroへと大幅に変更している。
スイスの法規制によって求められている動物を収容する設備の改善に関しては何ら問題はないと考えている。というのは多くの場合,ケージの材質をふさわしいものに変更するための時間が猶予されているので。10年前の状況に比べて,ほとんどの実験動物は施設に収容されている期間が長くなった。それは特別な要求を出して,動物を施設から実験室に連れて行くよりも研究者が施設へ行かなければならないことを理解させたからである。さらに動物福祉とその他の要因,例えば職員を有害物質から守ることと動物を病気から守ることは同一線上にあることを研究者に理解させたためである。
しかし,1991年の法改正後にわずかの点で懸念がある。それは免許を得るために要する時間を3ヶ月までとされたことにある。研究機関の事務部門の負担はおびただしく増えた。免許を取得するためには今では以前よりもはるかに詳しく内容を記すことが求められている(ほとんどの場合に不都合はないが)。しかし,次の段階として1年間に入手した動物の数とその詳細な記録,翌年に持ち越される動物数の予測と記録,動物が被る苦痛の記録などが保管されなければならない。大きな研究機関の場合には,そのような要求を精度の高いコンピュータソフトで処理できるであろうが,小規模の研究機関では大きな負担となっている。
もう一つの問題は,免許を与えることを不服とする,あるいはある種の実験を止めさせようとする動物福祉団体からの不断の圧力があることである。幾つかの州では動物福祉団体がその要求を認めさせることに成功した。このことが将来の法規制がどのような影響を与えるかは定かではないが,製薬企業にとっても科学界にとても不利な要因であることは確かである。遺伝子操作技術に対する懸案中の国民投票があるが,もしこれが受け入れられるとスイスにおいては遺伝子改変動物の研究は停止してしますことになる。
医学生物学会が恐れているのは,現在の穏健なスイス動物福祉協会がより過激な傾向をもち動物実験の廃止を求めるグループに取って代わられることである。動物実験を偏見と差別の目でみる人たちが増えている。ごく最近,スイスでは,学校の子どもたちの動物実験に対する考え調査した。それをまとめた報告書では子どもたちは動物実験が何のために行われているかを理解していない。動物福祉団体の情報のみが伝わり,動物実験を必要とする人々の情報が伝わっていない。医学生物学研究組織が一般の人たちとの関係を再び築あげ,動物実験反対キャンペーンを後退させることが必要性である。
結論:大学や製薬企業での医学生物学の研究は幾多の障害にもかかわらず,現状ではまだ生き延びている。将来に対する懸念としては動物実験対する反対がさらに増え,動物福祉グループがより先鋭化することである。好戦的な襲撃の危険も多少ある。しかし,国民投票における一般国民の意見を反映して反対団体の圧力を取り除くことができる。また,暴力はよくない戦法であるあるとに認識がまだある。一方,何度か国民投票が行われたが,その結果は,動物実験の必要性を国民に教育するために多大な努力を払う必要のあることを示している。
スイスの国民投票は遺伝子操作技術を支持した
スイスでは1998年6月7日(日)に国民投票が行われ、50の環境団体、動物権利団体そして消費者団体からなる連合団体から提案された「遺伝子操作技術から生命と環境を守る」という議案が賛成を得られなかった。これらの連合団体はこれまでに多種類の遺伝子工学的手法を禁止に追い込み、また技術の応用にも厳しい制限を加えてきた経緯がある。スイス憲法では、ある議案を決めるにあたり10万人の署名が集まれば国民投票をしなければならないことになっている。そして提案された議案が認められるためには投票者の過半数の賛成と、26州の過半数の賛成が得られなければならない。
このような国民投票はよく行われ、20年以上にわたって動物実験を禁止する目的で幾度となく行われてきた。いずれも成功しなかったが。しかし、遺伝子工学に関する国民投票は今回が最初であった。投票前の予想では投票者の大半が回答を保留すると見られていたが、投票日が近づくにつれて議案に対して反対する人々が増えてきた。6月の投票では議案に対する反対が67%、賛成が33%で、過半数の州が反対であった。これまでのスイスの国民投票では多くの場合、賛成と反対が僅差であったが、今回は議案が見事に退けられたと見なすことができる。
本案を提出した50の環境団体、動物権利団体そして消費者団体からなる連合団体は2年にわたり100万ドルを費やしてキャンペーンを展開してきた。一方、スイスの製薬会社が議案に反対するキャンペーンに費やした額は定かではないが、数百万ドルといわれている。スイスの科学学会は遺伝子操作技術が禁止された場合に生じる莫大な損害を特に伝えた。スイスにあるほとんどの製薬会社が国外に転居しなければならず、そのために42,000人が職を失うことになる。
スイスでは既に遺伝子工学を規制する厳しい法律があり、今回の議案に対する支持には限界があった。政府は最近、Gen-Lex案として知られる新しい規制法を答申する意向を伝えていた。Gen-Lex案に対してはスイス国民からも科学者や企業からも幅広い支持が得られている。新規制法は1999年までに施行される予定である。
環境キャンペーン家達は今回の国民投票が惨敗であったことを認めたが、彼らはこれで諦めないことを表明し、すでに遺伝子改良食品の原料の問題に焦点を当てた新しい議案を検討している。
投票により議案が認められる否かはスイスの遺伝子研究の将来にとって関心の的になっている。投票前の予想では、スイス最大の製薬会社ノバルティス社が2500万ドルをかけて遺伝子研究施設をカリフォルニアに建設することを決めたと報じた。新しい研究施設を設置する場所に関して、この決定が影響したかどうかは定かではない。